ナイフとフォークで作るブログ

小説とアニメ、ときどき将棋とスポーツと何か。


森見登美彦『太陽の塔』を読んで 〜私と水尾さんと太陽の塔〜

 太陽の塔は主人公「私」にとって偉大であり、かつての恋人水尾さんを見るための偉大な照射装置であり、作品のタイトルでもある。けれど京都にはない。


 『太陽の塔』の舞台はどっぷり京都で、太陽の塔はそこにはない。晴れ渡った日に「太陽の塔が見えますなあ」ということもないし。まして叡山電車に乗って行けるべくもない。だから京都と太陽の塔は、遠いともいえる。
 とはいっても、どちらも関西にあり公共交通機関を幾つか乗り継げば行けるので、近いともいえる。この微妙な距離感が面白い。


 その太陽の塔を、ひたすらドライに物語構成上の装置として見ると、それは他の何かと置き換え可能でもある。京都タワーでもよいし、祇園会館の栗山四号映写機などは別な魅力を放つやも知れぬ。だが、やはり太陽の塔が必要なのだ。
 「私」の妄想を越え、一つ街に暮らす男女が叡山電車に乗り、そこにないはずの太陽の塔ヘ向かうファンタジーが存在するためには、太陽の塔が必要なのだ。


 ただ作品を読み終え、改めて「私」と水尾さんに未来があるとは感じない。しかしなお太陽の塔は屹立し続けるし、二人の間から忘れ去られることもない。
 「私」に限らず、別れた誰かの面影を感じる何かを持つ人は多いと思う。その何かが太陽の塔ならば、それはなかなか素敵なことでもあり、結構苦しいことなのかもしれない。
 少なくとも「ええじゃないか」と言ってられないくらいには。

太陽の塔 (新潮文庫)

太陽の塔 (新潮文庫)

山野井泰史『垂直の記憶』を読んで。 〜 人間の強さ 〜

フィジカルな文章

 山野井泰史『垂直の記憶』を読みおえた。非常に面白かった。
 毎年読んだ本をランキングしていのだけれど、今年の一番は間違いなく『垂直の記憶』だ。(ちなみにこれまでの一番は北村薫太宰治の辞書』だった。)
 十代の頃に植村直己の冒険記や野田知佑のカヌーエッセイを好んで読んでいた。最近はそういった作品からは離れていたけれど。自分が冒険記のようなフィジカルな文章作品が好きであることを再確認した。今後、他の登山記、冒険記を読みたいと強く感じる。


「生還」

 『垂直の記憶』は七つの山の記録で構成されている。なかでも第七章「生還」が最も印象深い。
 ギャチュン・カン北壁を舞台にしたその章は、下山後の静かな病室の場面から始まり、時間を戻してスリリングで重苦しい登頂を描き、やがて、自然の猛威に圧倒され続ける下山の文章へと進む。
 筆者が高度、寒さ、風雪という厳しい自然に、身体をしたたかに傷めつけられながら、只々やらなければならないことを一つひとつ積み重ねていく描写は、生還すると分かっていながらも、やはり痛ましかった。


人間の身体の強さ

 人間が高い山に登ることは知っている。ただ、その経験のない自分にとっては、どうしても切り離された遠い話に落ち着いてしまう。しかし『垂直の記憶』を読んでいると、高い山に登ることを可能にしている人間の身体の力がダイレクトに伝わってきて、衝撃を受ける。
 たとえば人間が100Mを9秒台で走る姿を、テレビの画面を通して見ている人は多いと思う。だがもし、競技場で自分の世界と連続した視野の中に、直接に9秒台の走りを見たならば、人間の身体が発揮するパワーに圧倒され、テレビで見るのとは違う衝撃を受けるだろう。それと似た衝撃が『垂直の記憶』からは得られる。
 読んでいて、とにかく人間の身体の力強さが伝わってくるのだ。どうやら自分が認識しているよりも、人間は強いようだ。
 もちろん、活字からの想像風景を見ているので、それは虚像に過ぎないかもしれない。しかし山野井泰史の文章からは、確かに、凍った手で必死にクラックを探し、ピトンを叩き込む彼の姿が浮かび上がってくる。
 激しい自然に抗い、負けることなく山を下った彼と、彼の妻山井妙子の姿は非常に感動的だった。


『垂直の記憶』

 実際に見てはいないし、音も聞いてはいない。それでも読むことを通して人間の身体の偉大さをダイレクトに感じた。『垂直の記憶』の鋭く直截的でフィジカルな文章は、自分にとってとても大切なものとなった。読んでよかったと心から思う。
垂直の記憶 (ヤマケイ文庫)

垂直の記憶 (ヤマケイ文庫)

つくみず『少女終末旅行』2巻の感想  〜 文明を葬送する二人 〜

『少女終末旅行』

 チトとユーリ、二人の少女が文明の崩壊した終末世界を愛車のケッテンクラートで旅をする物語。それが『少女終末旅行』です。実際は文明が崩壊したと明言されていないですし、チトとユーリの移動が旅と呼べるものかも定かではありません。まあしかし、とにかくそういった物語です。

平和な終末

 終末というと、荒廃した危険な世界(『北斗の拳』や『AKIRA』、『マッドマックス』など色々あります)というイメージと結びつきやすいかと思われますが、本作は違います。
 生存している人間はごくごく少数で、かつ悪意を持ったような人物は(いまのところ)見受けられません。放射能による汚染もないようです。また、獰猛な野獣がいるとか、人工知能を持った殺戮兵器が闊歩している様子もありません。
 チトとユーリが旅する終末世界は、人のほとんど残っていない、しかしどことなく平和な世界です。

文明の葬送

 『少女終末旅行』1巻(特に前半)では彼女たちの生活風景が描かれていました。そのあたりから本作を、舞台の特殊な日常系作品として受容する向きもあるようです。ただ、それを以って『少女終末旅行』を、日常漫画としてだけ認識するのは些か詰まらなく感じます。
 日常についてのエピソードがあると同時に、本作は別なテーマも有していると考えるからです。そのテーマは、文明の葬送です。


 1巻の後半には、失われた「本」についてのエピソード、また「地図」を巡るカナザワとの話が描かれています。そして2巻では「カメラ」や「音楽」、そして「飛行機」とイシイについての物語が取り上げられています。それらはどれも文明が生み出した事物です。
 チトとユーリは、それら文明の名残に接することで、細々とであれその文明を継承したのでしょうか。いいえ、違うでしょう。むしろ彼女たちが文明の遺物に触れることで、それら遺物は最後の姿を白日に晒し、昇天していくのです。
 その昇天を見守り、葬送する者がチトとユーリです。事実「地図」は飛散し、「飛行機」は落下していきます。それらは、最後の姿を葬送者である二人の少女の眼前に晒し、天に昇ったのです。


 チトとユーリの旅(移動)の行く先は今はまだ分かりません。さしあたっては食料と燃料を補給し、それらがより多く残ていそうな方角へと進んでいるようです。
 しかし一方で、その道中に出会う様々な文明の名残を葬っていくことが、彼女たちの旅の、意図せざる(あるいは絶対者から託された)目的のように思われてなりません。

少女終末旅行 2 (BUNCH COMICS)

少女終末旅行 2 (BUNCH COMICS)