森見登美彦『四畳半王国見聞録』ごく短な感想
四畳半と阿呆神への執着
本作は「四畳半王国。それは外界の森羅万象に引けをとらない、豊穣で深遠な素晴らしい世界である」(森見登美彦『四畳半王国見聞録』新潮社/2011/p10、以下引用は同書より)や「『世界は阿呆神が支配する』芹名が呟く。意味は分からない」(p109)等々、四畳半と阿呆神への執着で煮染められた小説だ。その煮染められ具合は、その他の森見登美彦作品(例えば『四畳半神話大系』)よりも濃い。森見登美彦の作品世界を知らずに読めば胸焼けを起こしてしまうかもしれない。いや、森見登美彦ファンの中にさえ胸焼けしている人がいる恐れもある。そんな男汁溢れる作品である。
ふと感じる爽やかさ
けれど、男汁溢れアクの強い本作にも、ふとしたところに爽やかな文章が挟み込まれている。とはいえ、三浦さんの電話が切れた後、なすすべもなく膝を抱えて阿弥陀堂の軒下で雨音に耳を澄ましていると、なんとなくしみじみと嬉しい。その嬉しさを適切に表現することが彼にはできない
(p88)
今さら失われた夏の一日を取り戻そうとして慌てるのも空しい。(中略)「いったい今日という一日はなんだったんだろう。ホントになんでもない一日だったなあ」と考える
(p98)
この二つの文章は爽やかだ。
どれだけアクの強い作品を書いても、澄んだ心象を完全に欠落させないところに、森見登美彦作品の魅力を感じる。
- 作者: 森見登美彦
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2013/06/26
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塩野七生『海の都の物語 2 ヴェネツィア共和国の一千年』読書メモ
人間の良識を信ずることを基盤としたフィレンツェの共和体制が一五三〇年に崩壊した後も、それからさらに三百年近く、人間の良識を信じないことを基盤にしていたヴェネツィアの共和体制は、存続することができたのであった。
(塩野七生『海の都の物語 2 ヴェネツィア共和国の一千年』新潮文庫p167)
『海の都の物語』シリーズの二冊目である本書は、上の引用文で終わる。歴史についての本であり、特にネタバレということもないだろう。むしろ、本書を読み進める際に「人間の良識を信じないことを基盤にしていたヴェネツィア」という認識を持っていた方が、理解が深まると感じた。
すなわち、第四話「ヴェニスの商人」に記された海上商業の仕組や制度にしても、第五話「政治の技術」で書かれている統治体制、政治体制にしても、それぞれ現実的、合理的なものである。しかし、その底に「人間の良識を信じない」人間集団がいたことを思うと、そういった現実性や合理性が、一層の凄みを持って理解できるということだ。
- 作者: 塩野七生
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2009/05/28
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『シュリーマン旅行記 清国・日本』感想 〜 偏見なき知性 〜
ハインリッヒ・シュリーマン。トロイヤ遺跡の発掘で知られた人物である。
しかし、そのシュリーマンが幕末期(1865年)の日本を訪れていたことは、あまり知られてないのではないか。本書はトロイヤ発掘に先立つ6年前、世界を旅行をした彼が、清国と日本についてした著述を翻訳したものである。
世界の他の地域と好対照をなしていることは何一つ書きもらすまいと思っている私としては、次のことは言わなくてはなるまい。すなわち日本の猫の尻尾は1インチあるかないかなのである
(H・シュリーマン/石井和子訳『シュリーマン旅行記 清国・日本』講談社学術文庫p129。以下の引用は全て同書から)
この引用文章はシュリーマンの未知の世界への観察態度を端的に表している。旺盛な好奇心によって対象はあらゆるものに及び、同時に1インチという数量化が示すように客観的な観察態度である。
シュリーマンの日本での滞在日数はわずか1ヶ月だった。その短い期間に彼は驚くほど多くのことを観察し、理解している。
統治機能としての「オオメツケ」(p168)や、江戸の社会階級(p156)から、日本の調度事情(p84)、清潔さ(p87)、あるいは上のような猫の尻尾に至るまで、彼の観察対象は幅広い。
かつ、その観察眼は客観的だ。これは日本ではなく清国の万里の長城についての部分(p42~50)だが、長城の様相や、そこからの風景はもちろんのこと、長城の様々な箇所の高さや幅、さらに使われている煉瓦の大きさまで、細かく数字によって記録している。
本書から窺い知れるシュリーマンは、驚くほど予断や偏見なく清国、日本を見ている。彼の、様々な事物に興味を向け、同時に絶えず客観的である観察態度は、その偏見のなさが土台にあり、そこで通底しているのだろう。
そして、そういった予断や偏見のない知性に触れられる点に、シュリーマンによる本書の価値を感じる。
また、もちろん本書には時間的、空間的に離れた場所を追体験する楽しさもある。シュリーマンの文章はいたって平易である。しかし、彼の見た150年ほど前の清国と日本の風景がよく浮かんでくるのだ。北京、上海、横浜、江戸。彼の文章は、彼が見た風景をありのままに伝えてくる。
読書が、己とは別の人生を追体験する手立てであるなら、本書はその役を実に上手く果たしている。
『シュリーマン旅行記 清国・日本』はとても優れた紀行文である。
シュリーマン旅行記 清国・日本 (講談社学術文庫 (1325))
- 作者: ハインリッヒ・シュリーマン,石井和子
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 1998/04/10
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