ナイフとフォークで作るブログ

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齋藤学の移籍について感じたこと(2)  〜 同情編 〜

 昨日は齋藤学の移籍について、愚痴を書きました。

snapkin.hatenablog.com
 流石に恨み言の一つくらい言いたかったのです。


 今日はうって変わって、同情編です。齋藤学にも当然、彼なりの事情があります。それを考えると、やはり移籍という決断に対して同情すべき点のあることが理解できます。そのあたりを書きます。
 話しのとっかかりとして、自分の言いたいことを端的に表現してくれているツイートがあったので、まずはそれを2つ引用します。基本的にはこの2つのツイートで指摘されている点が、私の同情の理由に重なります。
(※ 引用ツイートは連ツイの一部なので前後の内容を詳しく知りたい方は引用先に飛んでみて下さい。)




 では1つ目のツイートです。スポーツ選手が現役でいられる時間が短いことは言うまでもありません。さらに怪我をすれば回復までその時間は削られるし、その程度によっては現役引退もありえます。そういった緊張感の中で、選手は所属チームを取捨選択していかなければなりません。
 一方でサポーターは応援するチームを選ぶ際に、生活を賭けるということはありません。私など、トリコロールカラーが好きでマリノスのサポーターになりました。そんな些細なことで応援するチームを決めながら、チームに対する愛着は深まるばかりなのが余計にタチの悪いところです。
 ともあれ、選手がチームを選ぶことと、サポーターがチームを選ぶことは全く違う種類の選択です。そのことをやはり忘れてはいけないでしょう。


 次に2つ目のツイートについてです。仮に単純な選手寿命の問題、さらには海外移籍へのアピールという問題だけならば、あるいは今回の移籍はなかったかもしれません。あくまで推測ですが。
 ただ、W杯出場の可否が関わってくると問題の深刻さは別次元の深さを持ちます。なにせ4年に1度の大舞台ですし、また齋藤学自身が前回ブラジルW杯メンバーに選ばれながら1秒もピッチに立てなかったという苦い、苦過ぎる思い出を抱えているのですから。


 現ハリルホジッチ監督体制の日本代表で齋藤学がメンバーに選出されることはほとんどありませんでした。それでもサポーターやメディアからは根強く齋藤学待望論が主張されていました。そういった状況で、彼がロシアW杯で選出される可能性はそれほど低くはなかったと思われます。少なくとも絶望的ということはなかったでしょう。
 しかし、2017年9月23日の甲府戦で事態は急変しました。全治8ヶ月の大怪我。ロシアW杯は絶望的に思えました。


 それでも齋藤学は諦めませんでした。2018年シーズンの開幕に間に合わせて、大きな結果を残せばW杯メンバーに入り得る。その可能性を信じたのだと思います。
 そのためにはマリノスよりもフロンターレの方がずっと好環境でした。監督の交代するマリノスと違い、フロンターレは今シーズンの体制を継続します。加えて、フロンターレACLの出場権を得ているのでアピールできる試合数にも違いがありました。
 つまり、引用ツイートにある「開幕からメンバ発表までの短期間、復帰から数試合で超絶インパクト」を残すために、フロンターレというチームはうってつけだったのです。それはマリノスでは実現できないことでした。そういった状況であればこそ、齋藤学は移籍を決断したのでしょう。


 以上のように2つのツイートを手がかりとして、昨日の愚痴に続いて、今日は齋藤学の移籍に関して個人的に感じる同情を書き残しておきました。


齋藤学の移籍について感じたこと  〜 愚痴編 〜

 齋藤学が移籍するというニュースを知り「マジかよ」という言葉がまず出た。
 あとに続いたのは悲しみや怒りといったネガティブな感情も多かったけれど、それと同時に、ニュースのインパクトが強すぎて、どういった態度を取るべきか持て余すような状態だった。つまり動揺していた。その動揺は今も完全には治まっていない。
 いくらか頭が冷静さを取り戻した頃、自分が齋藤学の国内移籍の可能性を全く本当に毫も考えていなかったことに気がつき可笑しくなった。自虐ぶるわけではないけれど、ちょっとした哀れさを感じた。


 2017年シーズンの齋藤学はなかなか点を取れずにいた。しかも、ようやく初ゴールを決めた第26節直後の第27節で大怪我を負ってしまう。
 けれど、長く点を取れない間も彼はマリノスのキャプテンであり、エースだった。怪我をしたあとも変わらず頼もしいキャプテンだった。元日天皇杯勝戦、初めはスタンドで観戦していた彼が延長時にはベンチまで降りてきて仲間を鼓舞している姿が忘れられない。


 昨2016年シーズンが終わり、マリノスのチーム体制が発表されてからも齋藤学の契約はなかなか発表されなかった。しかし彼が海外移籍を模索していることはサポーターには周知のことだったので、そのことを悪く言う人もいなかった。結果的にマリノスとの単年契約で2017年シーズンを迎えたわけだが、それも今シーズン後の海外移籍を見越してのことと多くの人は考えていたと思う。
 ただ怪我のために海外移籍に黄色信号が灯ったところで、来シーズンもマリノスでプレイする可能性が高まったのではないかと認識するようになった。だが違った。まったく思いもしない世界線が用意されていたのだ。
 現時点で、この事実をありのままに受け入れることはやっぱりちょっと難しい。「学、なんでだよ」って愚痴の一つもこぼしたくる。


 そして愚痴を言っておきながらだけれど、結局はどうしようもなく、齋藤学の素晴らしいサッカー人生を願わずにはいられない。

H・ケメルマン『九マイルは遠すぎる』感想  〜短編だからこそじっくりと〜

 『九マイルは遠すぎる』(永井淳深町真理子訳、ハヤカワ・ミステリ文庫、1976、以下引用は断りのない限り本書から)を読みました。
 私はミステリーの熱心な読者ではないので、有名作品を摘み読むことが主です。本作はいわゆる安楽椅子探偵ものの代表的作品なので、これはと手に取りました。ところで『九マイルは遠すぎる』と言うタイトルはすごく格好いいなと思います。

短編だからこそじっくり

 本作には8作の短編が収録されています。どの短編も、さほど複雑なトリックは仕掛けられてはいないので、さっと読み通すことができます。けれど、短い作品だからこそじっくり読み込むという楽しみ方もあると思います。それこそ安楽椅子にでも座って。
 長編作品はいざ解答編という段になり、様々なヒントを読み返すことは骨だったりします。もちろんメモを取りつつ読むなどの工夫はあるでので、無精な自分がいけないのですが。
 一方、短編であれば解答編が始まりそうなところで読み止めて、それまでの内容を見返すことは容易です。『九マイルは遠すぎる』はそういった読み方にうってつけの作品でした。
 また読み返す際には、探偵ニッキイ・ウェルトによるクライマックスの推理が始まる前で立ち止まるのもよいし、あるいはもう少し手前で、物語の語り手でありワトソン役でもある「わたし」が担当するズレた推理の前で立ち止まり、「わたし」の推理も含めて二方面で推理してみる手もあるでしょう。

並び順の問題

 『九マイルは遠すぎる』は、発表年代順に短編が並んでいます。ただ読み終えてみると、冒頭に置かれた表題作から読み始めると少し分かりづらい、ないしは作品世界に入りづらいと感じました。
 というのは「九マイルは遠すぎる」には、多くのミステリーにはあまり見られない特徴があるからです(※)。またこの短編には、登場人物の関係や性格が細かく書かれておらず、作品世界への取っ掛かりになりづらいのです。
 個人的には6番目に置かれた「おしゃべり湯沸かし」がニッキイの推理の方法や、彼と「わたし」の関係などを分かりやすく織り込んでいて、本短編集の入り口としてオススメです。まずそれを読み、改めて頭にある「九マイルは遠すぎる」に戻り読み進めていくという算段です。作品間の時系列は重要ではないので、その点の心配はありません。


 ※「九マイルは遠すぎる」では終始、ニッキイ・ウェルトの持ち出した命題(「十語ないし十二語からなる文章があれば、その文章を作ったときには思いもかけない一連の論理的な推論を引き出しうる」※※私の要約です)について、それが「わたし」の与えた「九マイルもの道を歩くのは容易じゃない、ましてや雨の中となるとなおさらだ」(p19)という文章にも言い得るかという(疑似)演繹的な証明が語られています。
 これはミステリー全般を見ても珍しいタイプの作品展開だと思います。また『九マイルは遠すぎる』に収められた他の7編にも同様の作品展開は現れません。
 なお蛇足ですが、「九マイルもの道を歩くのは容易じゃない、ましてや雨の中となるとなおさらだ」の原文は「A nine mile walk is no joke, especially in the rain」でした(※※※ https://books.google.co.jp/books?id=fybfCQAAQBAJ&hl=ja&source=gbs_navlinks_s を参照)。

九マイルは遠すぎる (ハヤカワ・ミステリ文庫 19-2)

九マイルは遠すぎる (ハヤカワ・ミステリ文庫 19-2)