ナイフとフォークで作るブログ

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読書録:桐野夏生『グロテスク』を読んで。

 『グロテスク』を読み終わったので、今日はそれについてブログに書こうと思っていた。ところが、ニコ生で将棋の「王座戦」第二局、羽生善治王座対中村太地六段が流れていて、それに見入ってしまった。そのために、二つあった書きたいことのうち一つしか書けなかった。仕方がないので、その半分書いた文章を上げることにする。

王座戦のこと

 ちなみに「王座戦」第二局は、稀に見る熱戦で面白かった。序盤の両者じっくりとした陣立て(しかも中村六段は古風な雁木を採用)から、中盤で羽生王座が仕掛け始め、そこから百手近くも王座が中村六段の玉将を追いかけ、追い詰めるという展開となった。何度か、中村六段が逃げ切ったかと見える局面もあったが、最終的に羽生王座が挑戦者をねじ伏せる。
 陸上競技に喩えるなら、五千米走、あるいは一万米走のような対局だった。速さと持久力、そのどちらもが高いレベルになければ勝ち得ない。そんな勝負で、年長の羽生王座が、勢いのある若手を下した。流石である。天才である。


 閑話休題。以下、本題である『グロテスク』について書く。

『グロテスク』感想

「わたし」について

 主人公の「わたし」は独特だ。いつでも冷静、平静なように見えて、その陰で自分の小さなテリトリーと、自分のささやかな愉しみを守るために、せかせかと心を働かせている。ときに自身の身体を動かすことも厭わない。


 彼女の「わたしは自分がいつも平常心を保っていることを誇りに思っています」(文春文庫版上巻p394)と言いながら、一方で「逃げられるのが寂しいと思う相手は逃げられないようにすればいいし、離れてもらいたい、うざったい人間はもっと逃げるように仕向ければいいのです」(同上)と、その平常を維持するために積極的に立ち働こうとする態度は、健気にさえ見える。
 平常とはつまり、彼女のテリトリーであり、愉しみである。「祖父」や「ミツル」にはそばに居て欲しいし、反対に「ユリコ」や「ミツルの母」には遠くに行ってもらいたい。そのために「わたし」は悪意を磨く(下巻p156、p225など参照)。それはQ女子校をサバイバルするための武器としてだけに留まらず、彼女が生き抜く拠り所であり、中年となっても手放していない。この自分の武器を頼み、それに縋る姿が健気さに繋がる。

信用できない「わたし」

 しかし、この態度は歪んでいる。歪んでいるというのは、単に素直でないということでもない。彼女の言葉をずっと聞いていると、固執と諦観、好きと嫌い、憧れと蔑み、不遜さと卑屈さ。それらが激しく混在した一筋縄でない心情が見え隠れする。文庫版解説で斎藤美奈子が指摘するように「信用できない語り手」(p450)である「わたし」の言葉が信用できないのと同様に、彼女自身も、自分の奥底にある何か(心?強さ?弱さ?)を信用し切れていない風に見える。
 彼女は、この自らへの不審を覆い隠そうと頑ななほど丁寧に語る、その言葉がときに愛らしく思えたりする。その辺りに、「わたし」の、他にあまり見られない不思議な魅力の正体を発見するのである。とても興味深い主人公だと思う。

詰まらない「わたし」

 しかし、「わたし」の最後は詰まらないものだった。自分の本心を、和恵やユリコに預けてしまった彼女の姿は、とても小さい。自らを知りながら、それでもユリコを、和恵を、そして「わたし」自身を突き放す、「悪意」ある「わたし」はもう、どこにも居なかった。

グロテスク〈下〉 (文春文庫)

グロテスク〈下〉 (文春文庫)