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ナイフとフォークで作るブログ

小説とアニメ、ときどき将棋とスポーツと何か。


読書録:桐野夏生『グロテスク』を読んで。 その2

一応、 http://snapkin.hatenablog.com/entry/2013/09/19/005131 の続きです。

はじめに

 『グロテスク』は、とても面白い小説だった。特に上巻で描かれている「わたし」の小さな王国と、物語に漂う拭い切れない不穏さが魅力的だった。下巻については、物語を結ぶためのチャンと和恵の独白が主で、やや物足りない印象を受けた。「わたし」の言葉をもっと聞いていたかった。

『グロテスク』の「グロテスク」について


 『グロテスク』という作品の文章に関して「グロテスク」というこのについて考える。文春文庫版解説で斎藤美奈子が言及しているように、「グロテスク」とは「ルネサンス期の芸術様式」美術のグロテスク様式が源であり、「動植物と人間がないまぜになったようなモチーフは、この小説にしばしば見られる動植物のイメージや、各章の表題とも密接に関連し」(文春文庫版下巻p453、※以下参照するのは同様に文春文庫版上下巻)ていると考えられる。
 しかしこの作品の文章では、美術様式と言葉のイメージ、具体的な語彙との関連、それとはまた別の様相を有する「グロテスク」も形作られている。

「わたし」の独白のこと

 文章における「グロテスク」。まずは、「わたし」の独白として語られる地の文の、文体の「グロテスク」さについて述べたい。「わたし」の語る言葉は、ですます調で嫌に丁寧だ。しかし、その丁寧さとは裏腹に悪意に満たされている。「慇懃無礼」という語があるが、それとも違う種類の礼儀正しさだ。慇懃無礼というのは、発話者が自らを誇示するための態度のように思えるが、「わたし」の言葉はより積極的に対象を攻撃し、より暗く濁っている。
 本来別ものである人間と動植物を混在させたグロテスク様式を、丁寧な言葉遣いの土台に悪意を乗せることで、文体面に援用している。獣の胴体に人の顔を乗せるように、本来近しいとは言えない要素をあえて結合させているのだ。例えば、このような具合に。


 「母については、幼い頃の私と今のわたしとでは、全然見方が違います。幼い頃は、母ほど美しい女の人はこの世にいないと信じ込んでいました。成長した今では、母は日本の女の人の中でも、たいしたことのない部類に入ると思っています。頭が大きくて足が短く、顔が平べったくて体格が貧相。目も鼻もちんまりとした造作で、出っ歯。性格は弱く、父に完全に従っていたのです。」(上巻p14)


 「わたし」は、普通ならば心地よいとされる語り口で、直截に相手を批難し攻撃する。そこには皮肉や嫌味といった回りくどさすら介在しない。『グロテスク』という小説に拭い切れない不穏さのを感じるのは、ひとつには作品の底に流れる、この異様な文体の故だろう。

話し言葉のこと

 次に、文章の「グロテスク」さについて、もう一点述べたい。それは、作品中の会話で使われる言葉の生々しさについてである。登場人物たちの話し言葉は、いたって標準的な日本語なのだが、そこに織り込まれる単語があまりに露骨なのだ。


 例えば「『あたしたちも歳を取ったわねえ。あなたの歯、隙間が広がったみたい』ミツルは、そうねえ、と複雑な顔をして、前歯を爪でこつこつと叩きました。そして、『あなたも老けたわ。それに悪意が迸った顔になった』」(下巻p144)という「わたし」とミツルの応酬。
 または「わたしがマフラーを鷲掴みにすると、和恵は手を払い除けました。『触んなよ、汚い手で』低く脅すような声でした」(上巻p384)という和恵の詰り文句。


 これらの場面で話される言葉は、あまりにあけすけで生々しい。私たちが日本語を使う際、誰かに対し発することが躊躇われる言葉を、彼女たちはあっさりと口にする。読んでいると、ドキッとさせられることも少なくない。けれど、言われる側は徒に傷ついたりはしない。どこかいびつな関係性がそこにはある。
 言葉の使われ方が非対称的とでも言おうか。鋭い言葉をぶつけても、受け手の反応が鈍いのだ。まるで同じ日本語を使うけれど此処とは違う、どこか平行世界を覗いているような違和感さえ覚える。この違和感もまた、『グロテスク』という作品の持つ、独特の不穏さの原因となっているだろう。


 以上二点、『グロテスク』の文章に関する「グロテスク」について書いた。「丁寧な言葉で語られる悪意」と「生々しい罵り言葉と鈍感な受け手」である。しかし、この二つの「グロテスク」さが失われる箇所が一つある。そのことに、上のような事を考えているうちに気がついた。そしてそれは、この物語の大切な一場面なのだ。最後にそのことについて記す。

人並みに傷付く「わたし」

 その箇所とは、「『あなたは確かに綺麗じゃないわ』わたしはとても傷付いていたのです。四十歳になろうとしている女が、他人の言葉で傷付いてどうする、とおっしゃるのでしょう。でも、わたしは、長い時を経て、突然現れたミツルに詰られるとは思ってもいませんでした。ですから、わたしの傷は二重になっているのです。『綺麗じゃないわ』という言葉と、それがわたしを傷付ける目的で、仲が良かったと信じていた旧友から発せられたこと、のふたつなのです」(下巻p169)という箇所だ。


 ここでの「わたし」は、奇妙な言い方だが人並みに傷付いている。「悪意という鎧」(下巻p200)は、ミツルからの言葉には脆いのかもしれない。傷付いたことを白状する「わたし」の姿は、彼女らしくない姿だが、却って尋常一般に予期される反応とは重なりあう。この、らしくない「わたし」の有り様は、結末に向け変化する彼女の伏線となる。
 この場面が、他の箇所から際立ち浮かび上がることに、大きな意味がある。丁寧な言葉で語られる悪意。生々しい罵り言葉と鈍感な受け手。この二つの「グロテスク」さが作り出す作品の世界が、ここで崩れ始めている。それは「わたし」自身の崩壊の端緒でもある。


 彼女は「悪意という鎧は、仮想ゲームのスパイスでしかありません」(下巻p200)と言っている。しかし、これは間違いだろう。彼女にとってはやはり、悪意こそが唯一無二の武器なのだ。スパイスなんかではありえない。もし、それを捨てるならば、ミツルのように他者(木島先生)と共生するか、「発酵と腐敗」を始めるしかないのである。
 そして、この人並みに傷付く「わたし」の姿は、「悪意」という武器を捨てて、何者かに変化してしまう彼女の予兆である。しかしその行き着く先については、ここでは記さないで置いておく。

グロテスク〈上〉 (文春文庫)

グロテスク〈上〉 (文春文庫)