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恩田陸論:「くり返し」という主題について

 恩田陸の作品を読むのは『図書室の海』で三冊目だ。最初に読んだのは『夜のピクニック』、二冊目は『六番目の小夜子』である。恩田陸の作品は優に五十以上あるので、読んだ量はまだまだ少ない。

「くり返し」という主題

 しかし読んだ作品が少なくとも、思うことはやはりある。それは恩田作品に存在する「くり返し」という主題のことである。「くり返し」は「反復」、「再帰性」、「回帰性」や「リピート」、「ループ」あるいは「リフレイン」と言い換えてもよいかもしれない。けれど現時点では「くり返し」という語がしっくりくる。やわらかな和語の響きの方が、恩田陸の作品には相応しいと考えられるからだ。


 もちろん、恩田作品における「くり返し」というテーマについては、これまでに多くの人が相当な紙数に渡り言葉を尽くしてきたことは想像がつく。
 が、しかしである。
 簡単にネット検索してみたところ、予期したような文章は見つからなかった。実際に刊行されている「恩田陸論」のような本があれば、おそらく何か書かれているだろう。もしかすると大学生の卒業論文などの方が、その点に触れている可能性は高いかもしれない。今後、探そうと思う。


 そういったなかでも、一つだけ目に留まった見解があった。それは「Yahoo!知恵袋」の「恩田陸さんって、どんな作家さんですか?」という質問に対する『(※1、恩田陸は)最近では「物語をしっかり完結させる事」にとらわれずに書いていらっしゃるようで、結末が「?」というものも結構ありますね。』という回答だ。この解釈はどこかで、恩田陸の「くり返し」に繋がるように思えた。
 (※1、筆者による補足。)


 「完結させる」ことと「くり返す」ことが矛盾するとは考えない。くり返される物語や言葉の中に何らかの終着点を見い出せば、作者にとってそれは一つの完成形となるはずだ。たとえそれが読者に終わりと見えなくても、である。
 最近はアニメ・ゲーム作品等で、いわゆる「ループもの」が一般化しているで、その辺を想像すると分かりやすいかもしれない。つまり「円環の理」が導く先は無限なのだ。しかし、それにも関わらず多くの受容者は、一つの可能性を結末と信じ(感じ)一喜一憂している。


 やや話しが横道に逸れてしまった。いま述べたいのは、もちろん恩田陸についてだ。そして彼女の「くり返し」という主題についてである。
 以下、この「くり返し」について、四つの類型に整理して述べる。


言葉の「くり返し」

 恩田陸による「くり返し」は、作品を構成する複数の階層で行われている。まず一つには言葉の階層だ。あるいは字句の階層と言うことも可能だろう。


 例えば『六番目の小夜子』の始まりの文章(新潮文庫版『六番目の小夜子』p13、以下『小夜子』、引用元は同様)と、結びの文章(『小夜子』p322)は全く同じ文章になっている(※2)。これがまさに、言葉の「くり返し」だ。
 (※2、 ここでは「春の章」に先立つプロローグは除外して考えている。)


 また『夜のピクニック』の前日譚である『ピクニックの準備』(『図書室の海』所収)では、三人の登場人物が微妙に字句を変えながら、同じ言葉を心に思い浮かべている。「みんなで、夜、歩く。それだけのことが、なぜこんなに特別なんだろうね」(新潮文庫版『図書室の海』p151、以下『図書室』、引用元は同様)。これは甲田貴子の場合だ。
 それが西脇融の心では「みんなで、夜、歩く。それだけのことがどうしてこんなに特別なんだろう」(『図書室』p155)となり、「私」が思い浮かべる言葉は「みんなで夜歩く。たったそれだけのことが、どうしてあんなに特別のことなんだろう」(『図書室』p157)となる。
 このように三者の間で少しずつ字句が違うが、共通の言葉が語られている。登場人物それぞれの「ピクニックの準備」を描きながら、その言葉が作品を貫く一つの芯となっている。


 『ピクニックの準備』で、『六番目の小夜子』の場合と異なり、語句のマイナーチェンジが行われているのは何故か。それは言葉の主体が人だからではなかろうか。一字一句が同じである『六番目の小夜子』の場合は、主体が学校という「小さな要塞であり、帝国で」(『小夜子』p13及びp322)ある。それは確固とした絶対的な存在である。しかし、人はそれぞれ揺らいでいる。
 恩田陸はそういった主体の差異を見極めて、場面ごとに相応しい言葉を選び出したはずだ。恩田陸は言葉の選択について極めて自覚的な作家だからである。


 ところで、『ピクニックの準備』は、実は『夜のピクニック』に連続的に繋がる作品ではない。作中にちょっとした仕掛けが施されている。その仕掛けは、言ってしまうと詰まらないので明かさないでおく。
 そしてこの不連続性は図らずも、言葉の階層とは別なレベルにある「くり返し」を顕在化させている。それは物語の「くり返し」だ。次に、それについて考える。


物語の「くり返し」

 『夜のピクニック』と『ピクニックの準備』は必ずしも繋がっていない。しかし、甲田貴子、西脇融の二人が登場する二つの物語が、全く無関係だとも言えないだろう。これは可能性の問題だ。どちらもありえたはずの物語であり、どちらかに正当性があるっといった問題では、決してない。同じように存在した二つ(複数)の物語が、それぞれ語られているのだ。ここに恩田作品における、物語の「くり返し」の一例がある。


 その『夜のピクニック』のなかに連続、不連続について示唆的な文章がある。「世界は連続しているようで連続していないのではないかという感じもする。一枚の大きな地図ではなく、沢山の地図がちょっとずつあちこちで重なり合って貼り合わされている、というのが、融が歩いていて感じるこの世界だ」(新潮単行本版『夜のピクニック』p17、以下『ピクニック』、引用元は同様)。これは空間についての不連続性を語っているが、時間についても援用し得るのではないか。


 時間も連続しているようで連続していない。どこかで分岐し、再びどこかで結合する。そうは考えられないか。並行世界があるとしても、それがあらゆる瞬間に同じだけあるとは限らない。そこには「薄い」と感じる時間と、「濃い、重要な」感じのする時間があるのだ。
 だとすれば「夜間歩行」のように濃密な時間が、一つの物語で完結しなかったとしても、不思議ではない。恩田陸が、その濃密な時間をくり返し物語として書いた、という理解も充分可能だ。


 また、『六番目の小夜子』に関してだが、この作品は、先に述べたように同じ文章で始まり、終わる。そのことは「小夜子」というゲームが、学校という限られた空間(共同体)で終わらず続いていくことを意味している。一周りして、ふりだしに戻るということだ。
 関根秋や津村沙世子が個人として、いかにもがこうとも、あがこうとも「小さな要塞であり、帝国であ」(『小夜子』p13及びp322)る学校はびくともしない。同じ舞台の上で物語はくり返される。三番目の小夜子にも、五番目の小夜子にも、やはり物語があった。たまたま、恩田陸がそこから選んだ物語が「六番目」に過ぎなかっただけなのかもしれない。


 あるいは『春よ、こい』(『図書室の海』所収)にも、物語の「くり返し」は組み込まれている。この作品では、二人の少女が幾度も同じ春をくり返す。くり返される「春」は、文字通りの季節の「春」だが、一方『春よ、こい』というタイトルにある「春」は、幸福なときとしての「春」を意味している。香織と和恵、二人の少女が胸に抱いた「春」を目指して「春」を重ねていく。それはおそらく輪廻転生の物語だ。 二人の少女は、何度も同じ季節を経験しながら、いつか望むべき「人生の春」(『図書室』p30)へと辿り着く。


 『夜のピクニック』と『ピクニックの準備』での並行世界的な物語の「くり返し」や、『六番目の小夜子』にある閉鎖空間でくり返される物語とは異なるが、この『春よ、こい』の輪廻の物語もまた、恩田陸による物語の「くり返し」の一つの形に違いない。


経験の「くり返し」

 香織と和恵が「春」をくり返したことは、別な階層にある「くり返し」に当てめることもできる。それは、経験の「くり返し」だ。二人は、何度も「春」を迎えるだけでなく、そこで毎回、よく似た状況を経験する。デジャ・ヴのような景色と出来事。細部を少しずつ変えながら、卒業式の日は反復される。
 このように、同じ経験をくり返して描くことも、恩田作品の特徴の一つだ。


 『春よ、こい』のそれとは違う形で、経験がくり返される作品が『図書室の海』に収められている。それは『ノスタルジア』だ。そこでは、複数の主体が入れ替わりながら、まるで同じような出来事を経験をする。
 つまり、Aの体験がBのものとして再現される。あるいは、Cの思考をDが自分のものとして語るといった具合だ。前者ならば例えば「先に行ってるから」(『図書室』p267及びp269)という言葉であり、後者については、円筒形の建物についての話し(『図書室』p274及びp290参照)が一つの例となる。


 その他にも、『ノスタルジア』には唯一名前を与えられた「由紀子」という女性が登場するが、彼女の経験の場合は前、後者両方の性質を複合的に含んでいる(因みに由紀子は、彼女の友人の夢の中では別人格となり、二重に登場する)。
 由紀子は「実家のある福島に帰って産婆さんのところでお産をする」(『図書室』p289)という。それに際して彼女は「産まれてくる子供。その子はどんな世界を夢見るのだろう。最初に見るものは何だろう」(『図書室』p290)という想いを抱く。その想いに対する回答は、実は作品の冒頭で提示されている。
 それは「オレね、自分が生まれた日の記憶があるんだ」(『図書室』p262)以下にある、「オレ」の自身の誕生と、そのときの記憶についての語りだ。彼が夢見たことまでは書かれていないが、少なくとも「オレ」が最初に見たものは語られている。由紀子の出産はオリンピックの年であり、「オレ」が見たのは1964.11の数字が載ったカレンダーである。生まれた場所が福島であることも、産婆さんによって取り上げられたことも共通している。
 この場面で、由紀子と「オレ」は、同じ出来事を共有しているとも言えるが、そうではないとも捉えることも可能だ。即ち、まったく異なる時間/空間で、同じような場面を、それぞれがくり返し経験したという見方だ。
 どちらが正解かの是非は置いておき、こういった表現がつまり、恩田作品における経験の「くり返し」なのである。


余談

 ここで、由紀子の出産/誕生のエピソードに関して余談を一くさり述べたい。
 出産、出生について由紀子は「産まれてくる」(『図書室』p290)と言っているのに対し、「オレ」は「生まれた日」(『図書室』p262)と言っている。当てられている漢字が違うのだ。「産」も「生」も、交換可能な漢字である。だからといって全く同じ語だとは言えない。
 「産」は「産む」の要素が、「生」は「生まれる」の要素が、それぞれに多いように感じる。しかしここで由紀子が使うのは「産」の「産まれる」である。そこから読み取れることは、出産が母の主体的行為であると同時に、自然の摂理であるという、作者の意識ではなかろうか。
 もちろんこの読解が正しいかは分からない。しかし、恩田陸がここで漢字を使い分けたことは、必ずや意図的である。恩田陸とはそういう小説家であるはずだ。


 また別な点だが、「オレ」の「生まれた日」について語りのなかに、三島由紀夫の話題が挿し挟まれるが、「由紀子」の名前が由紀夫から取られたことは、まず間違いないと思う。ただ、その理由は見当が付かないのだが、関連性を感じる。


 ここで要するに何が言いたいかというと、恩田陸は言葉を選ぶことについて非常に自覚的な作家だということだ。このあたりに、その恩田の一つの魅力が強く現れていると感じたので、余談を加えた次第である。
 閑話休題。


モチーフの「くり返し」

 四つの階層での「くり返し」に関して、次が最後になる。
 それは、モチーフの「くり返し」である。モチーフ、つまり表現を動機付けるものだ。同じモチーフをくり返し用いることは、小説家、あるいはより広く芸術家ならばよくあることだろう。


 しかし恩田陸の場合は幾分異質で、くり返すこと自体がモチーフとなっているのである。上の「物語の『くり返し』」についての部分で述べたが、『春よ、こい』は輪廻転生の物語だ。
 輪廻転生とは、ただ魂の生まれ代わりと理解されることも多いが、その根本には涅槃、つまり悟りへの憧れがある。生死をくり返すことで、ある種の理想へと近づこうとするのだ。そしてそれは恩田作品にとって、一部の物語の題材を越えて、創作の主要なモチーフとなっている。


 輪廻転生がモチーフである作品として『春よ、こい』の他に、同じく『図書室の海』所収の『オデュッセイア』が上げられる。『オデュッセイア』では「ココロコ」という移動する土地と、その上に暮らす人々の輪廻が二重に描かれている。人々は代を重ねることで、「ココロコ」は漂泊と停泊、そして再び漂泊をくり返すことで転生する。
 『オデュッセイア』はこんな一文で結ばれている。「私たちはまだ旅の途中なのだ」(『図書室』p209)。旅には目的地がある。それは言い換えれば理想(郷)である。彼らがそこを目指すことがつまり、輪廻転生に他ならない。


 また「経験の『くり返し』」であげた『ノスタルジア』も、一面では輪廻転生がモチーフとなっている。異なる人物が同じ経験を語るということは、生まれ代わりになぞらえられる。
 この作品の最後に「僕たちは懐かしいものについて語り続けなければならない。それだけが僕たちの存在を証明する手がかりなのだから」(『図書室』p292)と書かれている。一見、そこに終着点としての理想は見い出しづらい。しかし、懐かしいものについて語り続けることは流転を表すならば、存在を証明することは解脱へと繋がる。


 いま上げた三つの作品のモチーフには、輪廻転生がある。そのモチーフはくり返し、恩田陸に作品を生み出させている。また同時に、輪廻転生のような、それ自体にくり返しの要素を含むモチーフを選択するところに、恩田陸作品の一つの特色が見出しうるのである。


まとめ

 以上、述べてきたように、恩田陸の作品では様々な階層で「くり返し」が取り入れられている。言葉は反復され、物語は再帰し、経験はリピートさせられ、モチーフはリフレインされる。現時点では、「くり返し」という主題を四つの類型に分けたが、今後より多くの恩田作品を読むうちに、その数は変化するかもしれない。
 しかし、この四つはその基礎を為すように思う。


 ところで、私たちの生活、日常は毎日毎日大きく変化するものではない。一日ごとに思考が劇的に変質し、行動が刷新されていくということは、中々ないだろう。日が移れば、多少の変化はあるが、それもある程度の振り幅に収まるはずだ。その少しずつの変化を積み重ねて、結果として明らかに別な状態へ至るのではないか。
 それは個人の生活だけでなく、学校や会社のような組織、さらに拡張して社会についても同じことだろう。気が付けば大きく変わっているということはあっても、日々の変化量の上限と下限はそれ程大きくない。
 恩田陸は、その毎日の変化量の上限と下限をはみ出さない範囲で、物語を書いているように思える。彼女にとって「くり返し」とは、日毎の限られた変化量を増幅させるための装置なのだ。
 だからこそ、「くり返し」は恩田作品の主題となり得る。


 最後に、恩田陸の「くり返し」を支えているものが何であるかを考えたい。
 それは、恩田陸の文章の緻密さである。《 言葉の「くり返し」》、あるいは《余談》のところで述べたが、恩田陸は、これ以上ないほど自覚的に言葉を選ぶ。それは単語選択のレベルに留まらず、句読点の位置、過不足なく整えられたセンテンス、文章全体の構成等々、あらゆる面に及んでいる。
 この文章作りの緻密さがあるからこそ、恩田陸は、様々な階層での「くり返し」という、ともすれば冗長に陥りかねない手法を、上手く使いこなすことが出来るのだ。

図書室の海 (新潮文庫)

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