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北村薫『秋の花』:考察1 〜本を読む「私」の成長〜

『秋の花』:「私」の成長物語


 『秋の花』は北村薫による《円紫》シリーズで三番目に出版された作品だ。シリーズ初の長編となっている。
 この作品は、よく知られているようにミステリー小説だ。
 しかし、ここではミステリーの要素には触れずに、主人公である「私」の成長について考察する。
 「私」は埼玉県の自宅から、都内の学校に通う大学三年の女性である。《円紫》シリーズはミステリー小説であると同時に、彼女の成長の物語でもある。


 「私」の成長物語として見た時に『秋の花』は、大きく分けて二つの観点から捉えることが出来る。一つ目は、本を読む人(あるいは文を学ぶ学生)としての「私」の姿を見ること、二つ目は、周囲との関わりの中から相対的に浮かび上がる女性としての「私」を眺めること、である。
 

本を読む「私」の成長


 今回はその内の一つ目の、本を読む(文を学ぶ)「私」の成長について述べたい。

読者である「私」

 彼女にとって読書は、人生の大き部分を占める行為だ。そのことを、彼女自身しっかり認めている。曰く、

こういった現実の問題を考える時も、行き着くのが本のことになるのは私の弱さだろうか。そう思えば後ろめたい気もする。しかし、私は水を飲むように本を読む。水のない生は考えられないのだから仕方がない。

創元推理文庫版『秋の花』p112、以下引用元は同様)

 ということだ。「私」にとって、水、つまり本のない人生は、不完全な人生に他ならない。それほど深く本を求める「私」が、直截に自身の成長と読書を結びつけている箇所が『秋の花』にある。第一章の九(p37~41)がそれだ。そこには、

雑念のない子供の頃の読書には、今となっては到底味わえないような没我の楽しみがあった。(中略)
ただしかし、年齢を重ねると、そういう楽しみがいささか失われる代わりに、昔読めなかったところまで読めて来る。

(p39)

 とある。具体的にどの作品について、昔読めなかったところまで読めたのかは割愛するが、「私」はそのような読み方の変化をもって、「おこがましいことをいうなら、それが私の成長だと思う。」(p40)と自覚している。つまり「私」にとって、自らの視点から、ごく身近な領域で成長を確認できる基準が、読むという行為なのだ。そして、その読解の質的な変化に、彼女は自身の成長を感じている。

文学徒である「私」

 また、学生である「私」は、その本分である勉学についてもシリーズを通じて歩みを進めている。彼女はすでに、「卒論も《「芥川」にする》と口に出していうようになっ」(p116)ており、「後、一年と数か月かかってこれをまとめあげると、私の学生生活も幕である」という状況だ。
 「私」が卒業論文のテーマに選んだ「芥川龍之介」とは、どうやら彼女が「中学生の時『奉教人の死』を読」(p38)んだことが、最初の交わりだったようだ。その後、芥川が鬼趣を得たとしてあげた池西言水の句や、『或阿呆の一生』のある一節との出会いを経て、「私はこの人についてもっと知りたいと思った」(p39)と語られている。
 さらに、「私」は「作家論といのは誰を論ずるにしたところで、しょせんは自分を語ることだという意識もある」(p116)という見解も述べている。
 残念ながら『秋の花』では、芥川を論ずる卒業論文によって同時に語られる「私」、までは書かれていない。けれど、ただ本を読むだけでなく、文学徒としての現在の目標が明らかにされただけでも、彼女の成長を知ることが出来た。


 以上、「私」の読解の質的な変化への自覚と、「芥川」についての卒業論文を書く決意。この二点に本を読む(あるいは文を学ぶ)「私」の成長を見て取れるのである。

秋の花 (創元推理文庫)

秋の花 (創元推理文庫)