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北村薫『秋の花』:考察2 〜女性としての「私」の成長〜

北村薫『秋の花』:考察1 〜本を読む「私」の成長〜の続きです。

女性としての「私」の成長

 『秋の花』での「私」の女性としての成長は、周囲の人間との関係によって促される部分が大きい。ある人は「私」の足らないところを積極的に補い、別な誰かは意図する訳でもなく、「私」に未熟な部分を意識させる。

セクシュアリティーの成長について

 「私」は、俗っぽい言い方だが、あまり男っ気がない。どうやら恋人はいないようだ。だからどうしたと言われれば、それまでだが、先に「少女としての残り香」という言葉を使ったことと繋がる。その残り香が、「私」からははっきりと漂う。「私」は「少女」と「女性」の間の、どちらかと言えば「少女」よりの場所にいる。
 ただし、これは読み手からの勝手な印象のようで、「私」自身は、そうは考えていないのかもしれない。中学三年の時の『ボヴァリー夫人』の読書体験について「今拾い読みしてみると、読んだ時幼過ぎたという気はする。男女のことが分からない、などという意味ではない」(p40)と語っている。つまり中学三年の時にはすでに、男女のことが幾らか頭にあったはずなのだ。


 しかし、それでもやはり「私」は脱ぎかけの少女の衣をズルズルと引きずり歩いているように見える。純粋にセクシュアルな意味での女性としての意識が、あまり強くない。それがよく分かる場面がある。彼女が大学の帰りに、バイクに乗った中学時代の同級生とばったり会い、彼のバイクに二人乗りする場面(p132〜p136)だ。このときの「私」は、男性との付き合いに慣れていて、その関係を楽しんでいる、という風にはおよそ見えない。むしろ、男性に対して無防備過ぎる、あるいは無邪気過ぎるように見える。


 そのことについて正ちゃんは「自分に対する義務だよ。早い話が乗ったままどこかへ連れ込まれて、おかしなことになったらどうするの」(p139)と、真っ直ぐに「私」を戒めている。言われた「私」は「腐臭を嗅いだような嫌な気持ちになる」(p139)。しばらくこの話題について言葉が行き来した後、正ちゃんからの「馬鹿だなあ。本当に悪い奴が相手だったら、動けなくなっておしまいだよ」(p140)という言葉に、「私」は「冷水を浴びせられたように、ぞっとした。そこまで、ものを見なくてはいけないのだろうか」(p140)という思いを抱く。
 バイクの同級生に対する「私」の態度は危うい。正ちゃんの言うようなことが絶対にないとは誰も言えない。しかし「私」はそのことに無自覚だ。正ちゃんの言葉に「自分に対する義務だよ」とある。これは自己愛とは違う、もっとフィジカルでセクシュアルな意味だろう。傷ひとつない、つるりとした自分はそれだけで貴重であり、本当に悪い状況ならば、それは簡単に失われてしまう。
 だからこそ、「私」の男性に対する無防備を、正ちゃんは指摘する。その行動が、まさにセクシュアルな意味で女性である「私」の成長を補っている。

母性の成長について

 女性としての「私」は潜在的に「母」である自分も抱えている。その将来の母としての「私」の成長も『秋の花』では描かれている。しかし、ここでは「私」の成長を補うような存在は居ない。そうではなく、「私」が他者の母性と接することを通じて、自分にもある母性の種に気が付く。「私」は二人の女性と接することで、自らの母性を意識する。


 一人目は、学生結婚をした友人の江美ちゃんだ。彼女の「(ランドセルをしょった女の子の)* ——後ろ姿の黄色い帽子の下で、お下げ髪が揺れていたわ。それだけのことなんだけれど、歌を聞いている内に何だか目頭が熱くなっちゃったの。たぶん去年までだったら、《可愛いな》と思うだけだったでしょうね」(p129)という言葉は、「私」に「結婚とは殆どの場合、明日という日を待つ子を産むこと、母親への第一歩だ」(p129)という感慨を与えている。結婚ももちろんだが、ここで江美ちゃんの言葉に表れた現実的な変化を目の当たりにして、「私」は自分にもある母性を意識する。
 (*は、筆者による補足)


 二人目は、津田真理子さんのお母さんだ。「私」と津田さんのお母さんは、それぞれに、同じようなかたちで和泉利恵さんと接する機会を持つ。「私」自身が経験した際に、「私」が「和泉さんに感じたのは、妹がいたら抱きそうな感情だった」(p91)。「その子への、手を差し伸べてあげたいような想いである」(p91)。ここで「私」は姉としての自分を想像する。
 一方で「私」は、津田さんのお母さんが同じような状況で、しかし自分とは全く違う態度で和泉さんに接する姿を見る。その時に「私」は「こんなことは勿論、私には出来ないことだ」と感じる。和泉さんと、津田さんのお母さんは、親子ではない。けれど、そこには確かに娘が居て、母が居た。
 和泉さんを鏡として眺めた、想像上の姉としての自分と、一瞬の母である津田さんのお母さんとの距離は遠い。しかし遠くとも、二人の間は母性という一つの流れで結ばれている。その時に見た津田さんのお母さんの背中が、いつか自分の背中となることを「私」は知っただろう。他者との違いを認識するということは、そういうことでもある。この経験もやはり「私」の「母への第一歩」なのだ。


 江美ちゃんも、津田さんのお母さんも、「私」に何かを伝えようとした訳ではない。ただ、彼女達の行動や、言葉から、「私」は自分の奥底にあり、未だはっきりとは現れない母性を意識する。これが(将来の)「母」としての「私」の成長なのである。

秋の花 (創元推理文庫)

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