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ナイフとフォークで作るブログ

小説とアニメ、ときどき将棋とスポーツと何か。


「個人の公共に対する役割」と、それを望むことについて

時事問題

個人と公共と役割

 個人の公共に対する役割について、考えています。きっかけは、ここ一週間あまりの間にインターネット上で読んだ三つの文章です。


 公共に対する「役割」という語を使いましたが、これははじめ「義務」を当てて考えていました。けれど「義務」という、覆いかぶさってくるような言葉よりは、もう少し柔軟性のある言葉の方が適当だろうと考え「役割」としました。ただ、この「役割」もまた完全な表現ではありません。
 社会的な存在としての個人が公共に対して為すことの出来る、ときには為すことを求められる行動や役割を総合して「役割」としました。トートロジーに成ってしまっていますが、現時点ではこれ以上の説明の言葉を持たないので、その点ご容赦ください。


 以下、思考のきっかけとなった文章を順に上げていきます。

何故行動したくないんだろう

少しでも労働環境が良くなれば少子化やらの諸問題もほんの少しは解決するだろうし、生き良い世の中になるのに何故行動したくないんだろう。
原発問題やら反戦運動での抗議はよく目にするのになんで労働問題は誰も取り上げたりしないんだろう
なんだろうこれは、国民性?自力で民主主義を獲得してないから?誰か真剣に教えて欲しい。

 アニメ制作会社の過労死のニュースでのコメントで。 という、匿名ダイアリーからの引用です。


 このエントリーを読んで、これが個人が担う公共かと腑に落ちました。
 労働環境というのは、一見個人の問題のようですが、それは公共と地続きです。自ら劣悪な労働環境に居ながら、それを改善しようとしないのは結局、公共の中での役割を放棄するのと同等ということでしょう。


 因みにここにあるアニメ制作者の過労死のニュースはこれです。
 カルテに「月600時間労働」 アニメ制作会社勤務だった20代男性の過労自殺認定 - MSN産経ニュース
 月に600時間も働いていたらしい。はっきり異常です。

公共を行政権力に任せ過ぎです

 上に「腑に落ちた」と書きましたがこれは、それ以前に千葉市長、熊谷俊人さん(@kumagai_chiba)のツイートを読んでいて、うまく理解できなかった部分があり、そのところが腑に落ちたのでした。
 その理解できなかった部分がこれです。

公共を行政権力に任せ過ぎですね。

https://twitter.com/kumagai_chiba/status/456712645047906304 より引用。


 この言葉だけ説明が付かないので、熊谷市長がリプライした、KOIDE Kazuhideさん(@ediok_koide)のツイートも引用します。

そういう活動にコミットする意思がない、という個人主義の行き過ぎが背景と思う。

https://twitter.com/ediok_koide/status/456710469189771264 より引用。


 ここでの「そういう活動」とは、ツイッター上での会話の流れから「公共性を有する活動」と解釈し得ると考えます。
 一連の流れはtogetterまとめの自治体の後援や施設貸し出しと「政治的中立性」~熊谷俊人・千葉市長の意見と、その反響 - Togetterまとめを読んでいただくと分かると思います。


 実はこの熊谷市長のKOIDE Kazuhideさんに対するリプライは微妙に噛み合っていません。KOIDE Kazuhideさんは公共的な活動が盛んにならい原因として個人主義(利己主義)の行き過ぎがあるのではないかと述べています。
 それに対し熊谷市長は、公共に対しては行政権力ばかりでなく個人にも責任があるはずなのに、それを行政権力に任せ過ぎではないかと述べています。


 おそらく熊谷市長は、個人主義という言葉に反応して、(明示的にではないけれど)公共を担っているはずの個人の存在を指摘したのだと思います。そのことが「公共を行政権力に任せ過ぎですね」という言葉に託されています。
 しかし上に書いたリプライの噛み合わなさも有り、最初に読んだときに意味を上手く捉えられませんでした。その後、先の匿名ダイアリーを読み、個人もまた公共を担っているという点に気付かされました。
 そして、熊谷市長が「公共を行政権力に任せ過ぎ」と述べた意味も理解できました。つまり腑に落ちたのです。

もちろん助け合うなんて事もしない

 最後に三つ目の文章です。実は、一番最初に読んだのがこの文章でした。読んだ当初は特に興味を持たずに、ああそうかと漫然とした受け取り方しかしませんでした。しかし、上の二つの文章に触れることで、この文章の意味合いは変わりました。

メディアやネットが発達し、世の中には批判が溢れるようになった。
元から人間は誰かを批判したり批評するのが好きだ。
何でも知ってるような顔して、偉そうなことを言いながら誰かを見下すのは気持ちがいい。

みんながみんな見下す誰かや批判する相手を探してるだけだけ。
誰か失敗しないか、誰か間抜けな行動をしないかな、て言いながら、みんなが悪者を探してるような状態。

でも、実際の行動をする側にいる人間がいない。
外から入ってくる自分が興味があって、自分に都合がいい情報を受け入れるだけ。

報われない苦労をさせられてる奴をみれば「努力がたりない」「根性がない」と苦労もした事がない奴らにまで馬鹿にされる。熱くなってるやつをみれば「ダサい」だの「かっこつけてる」だの騒ぎ出し、少し隙を見せれば皆で糾弾して、ピエロにしたてあげてしまう。
他人に興味がないから、もちろん助け合うなんて事もしない。

(※下線は筆者による補足)
 これは『東のエデン』が訴えてる日本の問題って BIPブログという2ちゃんのスレッドまとめからの引用なので、孫引きなのですが、その点ご容赦ください。


 このスレッドのスレ主さんが訴えているのは下線を引いた部分のような、行動する、つまり公共に働きかける人間(より具体的には若者)の不在であり、また同時に行動することを躊躇わせている日本社会の風潮への批判だと思います。
 後者については、今回の話題と些か距離があるので割愛します。しかし前者、つまり下線を引いた部分は、公共に対する「役割」への不参加を指摘しており、先に上げた二つの文章と通じる訴えを包含しています。


 ただし、このスレッドでは若者と年長者を対立させており、年長者に対し若者が行動を起こすべきだと考えている節があります。これは部分的には賛成できますが、それだけで日本の問題は解決するでしょうか。やはり、あらゆる年代の個人が公共に対する役割について、意識を洗いなおすことが必要だと考えます。
 以上のようなことを、インターネット上の三つの文章を読み、考えました。

「有徳人」工楽松右衛門

 ここからは、少し別な話となります。
 かつて「有徳人」という言葉がありました。この言葉は「金持ちの人、分限者」を意味しています。いつまで使われていたか定かではありませんが、少なくとも現代では死語となっています。(※『広辞苑 第五版』には載っています)


 「有徳人」という言葉を知ったのは、司馬遼太郎菜の花の沖』を読んでいるときでした。作中に登場する工楽松右衛門についての挿話の中で、この言葉が出てきたと記憶しています。
 工楽松右衛門という人は18世紀から19世紀にかけて松右衛門帆という帆布を製造販売し、財を成した人物です。成功の後に彼は、函館港の造成に自費をつぎ込み、現在にも続く街の礎を築きました。


 この工楽松右衛門の姿にこそ「有徳人」という言葉がよく合います。つまり、分限者は徳を持っていて当然と考えられていたのです。それ故に「有徳人」に、金持ちの意が付与されます。
 徳があるということは、利己主義を離れ、社会の利益となることを為すことに結びつきます。余剰があれば、それを社会に還元することがごく当たり前とされました。
 それは即ち、個人が公共に対する役割を果たすということです。

個人の公共への希望

 しかし、だからといって分限者ばかりが公共に関わればよいのではありません。
 どの個人も各々の可能な範囲で、公共に対する役割を果たすことが出来るはずです。いや、むしろ多くの個人は潜在的には、公共に対して何らかの役に立ちたいという希望を持っているのではないでしょうか。


 最後に、個人の持つ公共に対する役割への希望について述べます。
 この希望は、明確には顕れていませんが、多くの人が抱いていると考えられます。それを証明することは難しいですが、社会のある一面を観察すると、そのように考えられます。


 大学生の就職活動などで、飲食や衣料販売といったサービス業種の企業から「顧客の感動体験のために」といったキャッチフレーズや「お客様からこんなに感謝されました」といった従業員の体験談が発信されているのを目にします。
 これはつまり、個人の持つ公共に対する役割への希望を刺激する惹句です。しかしその実は、顧客の為という面を隠れ蓑として、企業利益追求の手駒となることが求められています。
 こういった惹句が成功するのは、個人の内に、公共に対し何らかの役に立ちたいという望みがあればこそではないでしょうか。人々が持つ、社会に益したいという望みを上手に利用しているのです。
 この希望が企業によって吸い上げられ、企業の都合で使い捨てられていることは否定できないと考えます。


 先に上げた、三つの文章のうちの最初の一つは労働環境の劣悪さを述べていました。そして、その劣悪な労働環境を支えているものこそが、この個人の公共に対する役割への希望だとしたならば、それはあまりにグロテスクな皮肉でしょう。