ナイフとフォークで作るブログ

小説とアニメ、ときどき将棋とスポーツと何か。


若竹七海『スクランブル』の感想 〜 玉子以上、玉子未満 〜

玉子・卵・タマゴ

 「スクランブル」

 「ボイルド」

 「サニーサイド・アップ」

 「ココット」

 「フライド」

 「オムレット」

 各章題に玉子料理が並ぶ。


 白い楕円形の玉子。遠くからジッと眺めようが、近くに寄ってジロジロ観察しようが、一つ一つの明らかな違いを捉えることは難しい。若竹七海は物語に登場する女子高校生たちを、その玉子に擬する。


 ならば、女子高校生たちはみな似たり寄ったりの玉子に過ぎないという物語が書かれているのか。そうではない。彦坂夏見、貝原マナミ、宇佐春美、飛鳥しのぶ、沢渡静子、五十嵐洋子。十七歳の六人、それぞれが一つの殺人事件を通して「玉子でしかない私」と、それとは対照的な「かけがえのない私」に向き合う物語が『スクランブル』だ。

自分に対する期待

そう十五年前。すぐに誰かが羨ましくなり、自分と比較して落ち込んだり舞い上がったりしたあの頃。子どもだったのかもしれない。それをいうなら、いまだってそうだ。あの頃と変わらず輝いている仲間たちを見ると、つい自分と比較してしまう。比較したって仕方のないことくらい、百も承知していながら。甘えているのかもしれない。

集英社文庫版p98)


 これは三十二歳になった貝原マナミの感慨だ。
 彼女(たち)が誰かと自分を比較する前提にあるものは何であろうか。それは、自分(の可能性)に対する期待だ。
 年齢を重ねれば重ねるほど、自らへの期待は鮮やかさを失い、その一方で自分が所有している現物をもって自他を比較する度合いが強まる。しかし、十六、七歳の高校生にとっては所有物の多寡よりも、私が何者であり、あなたが何者であるかの方がずっと重要な問題だ。


 マナミが自分と夏見を比べたり、沢渡が宇佐と自分を比べたりして落ち込む様は分かりやすい(例えばマナミp85/沢渡p152)。しかし、比べられる側にいる夏見や宇佐も、自らへの期待を自信たっぷりに抱いていた訳ではない(例えば夏見p265/宇佐p246)。
 このような他人との比較や、虚勢を張った自信は「自分に対する期待」を否定しない。むしろそういった不安定な状況や、後ろめたさを通じて、「自分に対する期待」という漠然とした思いに形を与え、期待の核にある「かけがえのない私」に近接していく。

十一月の図書室

 高校というケースに並べられた玉子から、若竹七海は美しい六つの玉子を取り出した。物語を読み終えて、六人の玉子たちが持つ「自分に対する期待」の正体、すなわち「かけがえのない私」が具体的に描かれている訳ではない。そこに描かれているのは「かけがえのない私」を模索する少女たちの姿だ。


 いや少女だけではない。三十二歳になったマナミがいうように、「いまだってそう」なのだ。『スクランブル』という小説は、女子高校生たちを楔と打つことで、実はもっと年経た読者の内面を動かそうとしているのかもしれない。だからこそ物語の最後の場面で、夏見と宇佐にあのような会話をさせたのだろう。


 そう、風は吹き続けていたのだ。

スクランブル (集英社文庫)

スクランブル (集英社文庫)