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ナイフとフォークで作るブログ

小説とアニメ、ときどき将棋とスポーツと何か。


森絵都『永遠の出口』を読んだ感想

 『永遠の出口』は岸本紀子という一人の少女の小学三年〜高校三年までの十年間を、九つの章に分けて書いた物語だ。第一章が小三〜四の二年に跨ぐのを除くと、一章ごとに一つづつ学年を重ねていく。


 つまりは成長小説である。それぞれの学年でのエピソードを読むと、その内の幾つかは我が身の記憶と重なるような顛末で、紀子個人の物語でありながら文学作品らしい普遍性がしっかりと織り込まれている。思うに、思い出(あるいは物語)が生まれる強力な取っ掛かりとして「恥ずかしさ」がある。「恥ずかしさ」ほどあっさりと、それでいて深く心に根を張る感情は中々ない。


 『永遠の出口』を読んでいると、思春期とは「恥ずかしさ」との戦いの日々であることが思い出される。それは例えば人前で赤面するようなことばかりでなく、他人に、そして自分に素直に向き合えるかという人間の基礎部分に関わる。
 紀子にとって最も難しかったことは、自分が何を思い、何を考え、どのように感じ、行動する何者であるかを表明することだったのではないだろうか。それを素直に世間に、そして自分に明らかにすることは容易ではない。そのことに伴うばつの悪さは、読者の内でも多くの人が経験した(経験する)ことだろう。


 『永遠の出口』の小学生の頃のエピソードには社会性に関わる出来事が書かれているけれど、中学、高校と成長するごとに物語は紀子の個人的な話題に推移していく。それは見方によっては成長に反比例して話題が幼くなっているようにも感じられるが、そうではない。むしろ社会(学校、教室や家族)に対峙する自分を発見する事こそが、思春期の最難所であり、そのことを森絵都は丁寧に表現している。
 「恥ずかしさ」は自分の内にあり、それを打ち負かすことは難しい。それでもなお恥ずかしい自分を見つめる目を持つことで、人間は成長できる。そしてその為の時期が思春期であり、紀子の中学、高校時代のエピソードは、まさにその時期の姿を描いているのである。
 森絵都『永遠の出口』は一見俗っぽく物語を進行させているようだけれど、その実は少女の成長の過程を明確に捉え、それを鮮やかに表現した作品であった。

永遠の出口 (集英社文庫(日本))

永遠の出口 (集英社文庫(日本))