ナイフとフォークで作るブログ

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森見登美彦『太陽の塔』を読んで 〜私と水尾さんと太陽の塔〜

 太陽の塔は主人公「私」にとって偉大であり、かつての恋人水尾さんを見るための偉大な照射装置であり、作品のタイトルでもある。けれど京都にはない。


 『太陽の塔』の舞台はどっぷり京都で、太陽の塔はそこにはない。晴れ渡った日に「太陽の塔が見えますなあ」ということもないし。まして叡山電車に乗って行けるべくもない。だから京都と太陽の塔は、遠いともいえる。
 とはいっても、どちらも関西にあり公共交通機関を幾つか乗り継げば行けるので、近いともいえる。この微妙な距離感が面白い。


 その太陽の塔を、ひたすらドライに物語構成上の装置として見ると、それは他の何かと置き換え可能でもある。京都タワーでもよいし、祇園会館の栗山四号映写機などは別な魅力を放つやも知れぬ。だが、やはり太陽の塔が必要なのだ。
 「私」の妄想を越え、一つ街に暮らす男女が叡山電車に乗り、そこにないはずの太陽の塔ヘ向かうファンタジーが存在するためには、太陽の塔が必要なのだ。


 ただ作品を読み終え、改めて「私」と水尾さんに未来があるとは感じない。しかしなお太陽の塔は屹立し続けるし、二人の間から忘れ去られることもない。
 「私」に限らず、別れた誰かの面影を感じる何かを持つ人は多いと思う。その何かが太陽の塔ならば、それはなかなか素敵なことでもあり、結構苦しいことなのかもしれない。
 少なくとも「ええじゃないか」と言ってられないくらいには。

太陽の塔 (新潮文庫)

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