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村上春樹『もし僕らの言葉がウィスキーであったなら』感想  〜ウィスキーと、素面の言葉〜

 酒は、人に言葉を紡がせる魅力を持っている。


 飲酒の情景を描いた文学作品は数多い。たとえば漢詩では、飲酒が主要なテーマの一つとなっている。また日常においても、粋な酒の飲み方や、飲酒にまつわる武勇伝を語りたがる人は少なくない。
 酒は、人をして物語を見い出させしむるのだ。これはアルコールが人に与える快楽と、その裏側にある酔うことへの後ろめたさ故だろう。


 一方、酒自体についての言葉も多い。たとえば、酒の銘柄や種類についてのウンチクを披露する人も少なくない。酒が土地や時代に深く根付いた産物だからである。
 一つの酒があれば、どこで作られたのか、いつ作られたのかと物語が伴う。人はその物語を語りたいがるし、ときには自分の目で、肌で、舌で実際に感じたいとさえ思う。



 『もし僕らの言葉がウィスキーであったなら』は村上春樹が実際に感じ、確かめたウィスキーの物語だ。そこではスコットランドアイルランドのウィスキーについての物語が、淡々と綴られている。文章に添えられた写真は飾り気がなく、互いの魅力を引き立てあっている。


 「もし僕らのことばがウィスキーであったなら、もちろん、これほど苦労することもなかったはずだ」(村上春樹『もし僕らの言葉がウィスキーであったなら』新潮文庫、2002、p12。以下、引用は同書から)と村上は書く。確かにそうかもしれない。「しかし残念ながら、僕らはことばがことばであり、ことばでしかない世界に住んでいる」(p13)。その通りだ。
 さらに続く一文が印象深い。「僕らはすべてのものごとを、何かべつの素面のものに置き換えて語り、その限定性の中で生きていくしかない」(p13)。


 ウィスキーを飲み交わすだけで伝えられたなら「とてもシンプルで、とても親密で、とても正確」(p12)なはずだった。けれど僕らは、ウィスキーによって、シンプルで親密で正確に感じられた世界を「何かべつの素面のもの」つまりは言葉に置き換えることなしに伝えることはできない。


 酔うほどに世界は親密に思えてくるし、アルコールのもたらす高揚と後ろめたさは人を饒舌にする。
 酒飲みは、世界との、すなわち他者との親密さを伝えようと言葉を紡ぐだろう。しかし言葉は素面で、伝えたいことと、伝えられることの間には決定的な隔たりがある。酒を飲む人はその隔たりを埋めようと、もちろんそれは堂々巡りなのかもしれないが、いつまでも言葉を紡ぎ続けるのだろう。

もし僕らのことばがウィスキーであったなら (新潮文庫)

もし僕らのことばがウィスキーであったなら (新潮文庫)