ナイフとフォークで作るブログ

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恩田陸『六番目の小夜子』読んだ感想です。

不完全さについての物語

 『六番目の小夜子』は不完全さについての物語だ。その物語は二組の男女を通して語られる。
 一組目は花宮雅子と唐沢由紀夫。二人の恋物語は、初々しく清らかだ。彼らは互いに、「好きだ」とか「付き合って欲しい」という言葉を口にしない。それでも確かに心が通じ合う。いつかはどちらかが、決定的な言葉を望むかもしれない。けれどそれまでは、不確かさと強さに包まれながら二人の物語は続く。
 二組目は津村沙世子と関根秋。小夜子という学園伝説を巡る、二人の物語だ。秋は学校一の秀才で、頭の良さは誰もが認めている。けれど、小夜子の秘密に迫る彼は、どこか覚束なく素直過ぎる。また、沙世子も怜悧で冷静な少女だが、最後、火事に巻き込まれる秋を目にして取り乱す。二人とも、とても優秀で大人びた高校生だ。けれど狡さも軽薄さも、まだ持ちあわせてはいない。
 完全さとは大人になることではない。むしろ完全さは「社会の一部である」(p21)ことだ。「けれども高校生は、中途半端な端境の位置にあって、自分たちのいちばん弱くて脆い部分だけで世界と戦っている」(p21)。この世界は社会と読み替えられる。彼らは、庇護と自立の境界線上でもがく。小学生や中学生からは意味ありげに見えるかもしれないが、大人から見れば無意味とも言える闘いだ。それはとても奇妙な物語。「奇妙に宙ぶらりん」(p21)な物語だ。

ミステリーと青春小説

 この二つの物語のうち、後者こそが『六番目の小夜子』という小説の個性である。沙世子と秋、二人の小夜子が学園の小夜子伝説に対峙するからこそ、小説が動き始める。『六番目の小夜子』が他の作品にはない魅力を持ち得るのは、沙世子と秋の物語による。
 一方で、雅子と由紀夫の物語は作品に普遍性を与えている。ミステリーとしての『六番目の小夜子』を支え、青春小説として作品の背骨となるのが、雅子と由紀夫の物語だ。二人の恋愛の初々しさが、作品の底に流れているからこそ、小夜子伝説の怪しさがより深まる。

 この小夜子伝説というミステリーは、実はさほど難解ではない。いや難解ではないというと、作品を矮小化させてしまう。別な言葉で言うと、答えの在り処がはっきりしたミステリーなのだ。
 秋が沙世子に「いいかげんに本当のことを教えてくれよ」(p285)と問いただすことがそのまま、ミステリーの答えを知ることに結びつく。沙世子が何かを知っていることは、かなり早い段階から明らかだ。つまり秋と沙世子が、小夜子について話し合うことで謎が解けることは確かだった。
 このことは『六番目の小夜子』のミステリー小説としての側面にも、青春小説あるいは成長物語的要素が組み込まれていることを示す。つまり、二人にとって不可侵な話題に踏み込むめるか否かは一つの試験である。その一歩を踏み出すことで、二人は「宙ぶらりん」な状態から抜け出す。避けていた問題に立ち入ることは、相手を知ると同時に、自分を晒け出すことも意味する。小さな城郭の中にしまいこんだ自我を、相手に差し出さなければならない。それは他者との関わりを通じて、「社会の一部」となることなのだ。

黒川=学校

 その社会を象徴する存在が教師黒川だ。秋と沙世子には黒川に問うことで、小夜子伝説の秘密を知る方法もあった。結果的にそれは為されなかったし、それ以前に黒川が真実を語ったかどうかは疑問である。
 なぜなら、黒川は社会に属すると同時に、学校(ここでは高校を指す。以下同様。)にも属する存在だからだ。彼は「いつもその場所にいて、永い夢を見続けている小さな要塞であり、帝国で」(p13及びp322)ある学校に暮らしている。学校は子どもの世界と大人の社会の境界線上にあり、そこで繰り返される「生徒たちの一生のうちでも、一番美しい季節の一つであろう、新鮮な感情の輝き。彼はそれをじっと眺めている」(p307)のだ。小夜子伝説はそのための要となっていて、それをあえて終わらせる理由が黒川にはない。

美しい季節

 この「一番美しい季節」とは云わば、不完全さではないか。決定的な一歩を踏み出せず、自分の中の小さな要塞から飛び出すか、飛び出さないかぎりぎりの場所に高校生はいる。雅子と由紀夫の不器用な恋を一本の軸として通し、その上で沙世子と秋、背伸びした二人のいささか異質な交流を描いたところに『六番目の小夜子』の魅力がある。普遍的な青春の物語を土台に、危うげで不思議な物語を組み上げている。それが『六番目の小夜子』の持つ面白さなのだ。
 最後の場面、「雅子は笑いながら、並んで歩く由紀夫を見上げた。そこには、もう学生服を着ることのない、少し大人びた青年の横顔があった」(p322)。「学生服」は学校、即ち不完全さの象徴であり、「青年の横顔」は「一番美しい季節」の終焉を意味している。
 結局、小夜子の秘密は当事者以外に広まることなく続いていく。黒川は変わらずにそれを見守り続けるだろう。雅子も、由紀夫も、沙世子も、秋も、黒川(つまり学校)の掌の上で、右往左往していただけだ。言い換えればそれは、動揺であり、葛藤であり、覚束なさである。
 『六番目の小夜子』を読むことはつまり、その不完全で「一番美しい季節」を眺めることなのだ。

六番目の小夜子 (新潮文庫)

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