ナイフとフォークで作るブログ

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J・P・ホーガン『星を継ぐもの』感想  〜ミステリー小説として楽しむ〜

 これまでSF作品にあまり親しんでこなかったこともあり、サイエンスの要素は最低限の理解で済ませつつ読んだ。それでも『星を継ぐもの』は楽しめる作品だった。


 SFのサイエンスに興味のある人や、理系の勉強をした人ならばより深く楽しめるのかもしれない。しかし僕のような知識のない人間が、その点をよく理解しながら読むと時間が掛かり過ぎる。そのため、物語の筋が分からなくならない程度の理解で済ませた。
 そのようにサイエンスの部分については、作品を味わい切れたとは言えない。けれど『星を継ぐもの』はSF小説でありながら、同時にミステリー小説でもあった。だからこそ楽しめる作品だったのだ。


 本作品では、月で亡骸が発見された「ルナリアン」チャーリーの正体を解明することが、終始大きなテーマとなっている。そこが本作品がミステリー小説とも捉えられる所以である。
 作中、チャーリーの正体への仮説と反駁が反復される。新たな意見が披露される度に、その意見に正しさを感じる。そしてその反復の先に、作品としての解答が鮮やかに語られる。
 その点を以て、本作を上質のミステリー小説と捉えることは許され得るだろう。


 SF作品でありながら、サイエンスとは別にミステリーという取っ掛かりを持つことが『星を継ぐもの』の一つの魅力である。

星を継ぐもの (創元SF文庫)

星を継ぐもの (創元SF文庫)

メル・ギブソン監督『ハクソー・リッジ』感想  〜そのときデズモンド・ドスは英雄ではなかった〜

 デズモンド・ドスは米国軍人でありながら武器を持たずに従軍し、第二次世界大戦沖縄戦の激戦地「ハクソー・リッジ」において75名の命を救う。まさに、英雄的といえる行動だった。


 しかし、彼は負傷者を救い始めた瞬間から英雄だったのだろうか。それは違うだろう。なぜ違うのか、それについては後ほど述べたい。


 だがともあれ、単独で75人もの命を救ったという結果から眺めれば、彼は紛れない英雄である。そしてなにより、彼はそうなりうる人物だった。監督メル・ギブソンによって多角的に描かれたデズモンド・ドスの姿から、彼が英雄となりうる人物であったことが知れる。まずはその点について述べる。
 

デズモンド・ドスのこと

 デズモンド・ドスを構成する人格、人柄のうち幾つかの要素が、彼の英雄的な行動を支えた。本作中に描かれた彼の姿から、それらの要素を読み取っていく。


 一つに信仰があげられる。彼は信仰心の厚いキリスト教徒だった。そのために良心的兵役拒否者でもあった。また、兵役に就いて以降のドスはフィアンセからプレゼントされた聖書を肌身離さずに持っている。
 一方で、ドスの父は神を信じない人物として対照的に登場する。第一次世界大戦に従軍し多くの仲間を失った悲しみから、彼は神を否定しアルコールに依存する。そのこともドスと信仰との関係に、別な角度からの深みを与えている。


 二つ目にドスの信念をあげたい。これは彼の信仰とも繋がる。しかしその信念による制約は、信仰が求める度合いを越えている。
 ドスは軍人になりながら武器を持たなかった。彼が武器を持たなかった理由は、部分的には「汝、殺すなかれ」というキリスト教の戒めによっている。だがその戒めは、武器を手に取ることまでは禁じていない。ならばなぜ、ドスは武器を持たなかったのか。それは、自らの家族に対し暴力を振るってしまった二度の経験への、後悔と苦しみのためである。
 その二度の悔やむべき経験から、ドスは決して暴力を振るわないという信念を胸に抱き、武器を持つことを拒否する。


 また、ドスは丈夫な身体を持っていた。体型だけを見ると華奢に見えるが、障害を踏破する訓練での成績は一等だった。観客は、幼いドスが兄弟と山野を駆け回っている姿をすでに目にしているので、彼の身体能力の高さに疑問を抱くことはないだろう。


 そして、フィアンセの存在がある。彼女はドスにとって神と同等に大切な存在だった。彼が戦場で肌身離さず持った聖書は彼女からのプレゼントであるし、その聖書には常に彼女の写真が挟まれていた。


 最後にドスの性格が楽天的だったことをあげたい。兵役に就いて以降、武器を持たないことで彼が上官から詰問される場面がある。そんな緊張すべきときでも彼はナーバスにならず、ときにジョークを飛ばしたりする。そういった楽天的な性格も見逃してはならない。


 以上のように、信仰、信念、丈夫な身体、大切な人の存在、楽天的な性格と、監督メル・ギブソンはドスという人間を多面的に描いた。そしてそれらの要素が合わさり、75人の命を救うという彼の英雄的な行動を支えたのである。
 

疑問への回答

 ではここで冒頭にあげた「彼は負傷者を救い始めた瞬間から英雄だったのだろうか」という疑問に戻りたい。そしてやはり、それは違うだろう。


 ドスがいたのは戦場である。戦場という極限的状況を前提としなくては、違うという主張を説明することはできない。
 激しい戦闘が続く極限的な状況で、ドス自身の心が壊れそうになるシーンがある。彼が神に「声を聞かせてください」というシーンだ。そのとき彼が神の声を聞いたかどうかは分からないし、それは重要なことでもない。ただ、その後から彼は仲間を救う行動を始める。
 ドスは自身の壊れそうな心を守るために、仲間を助け始めたのだ。あるいは神の声を聞いたのかもしれないが、それが表現されなかった以上、啓示に動かされたと考えるのは正しくないだろう。
 むしろ、ドスは心が壊れそうになっている自分を守るために、仲間を助けるという行動を利用したのだ。戦場で負傷兵を収容することは危険で、すぐに死んでもおかしくない。しかし彼はマシーンのように行動する。


 人間は悲惨な状況下で自分を守るために、普段とは別な行動原理に身を委ねることがある。本来ある心を、別な何かに置き換えるのだ。いわばエヴァンゲリオンのダミープラグのようなものだ。
 そして、ドスは自らの心を守るために、その働きを仲間を助けるという行動に特化させる。彼の行動は偏執的にさえ見える。しかしそれは当然で、そのように心のチャンネルをスイッチさせなければ生きられなかったのだ。


 そして忘れてならないことは、ドスに人命を救う行動によった自己防御という方法を選ばせ、可能とさせたものこそ、メル・ギブソンによって掬い上げられたドスという人間の多面的な要素なのである。
 ドスの信仰、信念、丈夫な身体、大切な人の存在、楽天的な性格が組み合わさり、仲間を救い続けることにより、自らも助かることを可能とし、戦場を生き抜くことができたのだ。


 ドスの行動はまさに英雄的だった。しかし、その始まりから英雄だったのではない。まずドスが救おうとしたのは、他の誰でもなく自分自身だったからだ。生きるために行動し、結果として彼は英雄になった。ただ彼の行動の根本にあった苦しみを見逃すことはできないのである。


 デズモンド・ドスは英雄になるべくしてなった。しかし最初の瞬間から英雄だったのではない。そう考えている。


桜庭一樹『私の男』を読んで  〜土地と女と男と〜

 桜庭一樹は土地を描く。
 桜庭一樹作品の登場人物は、ある土地において(『私の男』では奥尻と紋別)、周囲から期待される居場所と、自分が心地よいと思う居場所の間に齟齬があり、その齟齬を埋められずにいる人たちだ。

 彼らのうちの幾人かは、その齟齬と何とか折り合いをつけて生きていく(例えば『赤朽葉家の伝説』の万葉)。

 また、彼らのうちの幾人かは、その齟齬に傷つき(例えば『少女には向かない職業』の二人の少女)、ときには土地から弾き出される。

 『私の男』は、土地から弾き出された人物についての物語だ。そして、弾き出されながらも、真実は、キタと海に誰より強く囚えられ続ける女と男の物語が『私の男』なのだろう。

私の男 (文春文庫)

私の男 (文春文庫)