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木村義雄『ある勝負師の生涯 将棋一代』感想  〜 垣間見られる戦前の生活、風俗が興味深い 〜

 木村義雄、将棋界の実力制第一代名人であり、第十四世名人(永世名人資格獲得による)である。


 タイトルに『ある勝負師の生涯』とあるが、木村義雄の生涯の初めから終わりまで描かれているわけではない。幼い時期から、一度失った名人位を再奪還復位するまでの姿が描かれている。


 本書からは当然、大成した木村義雄という将棋棋士を知ることもできるし、あるいは、木村の師匠である関根金次郎十三世名人の英断により、家元制名人時代から実力制名人時代へと変容する将棋界の歴史を知ることもできる。
 一方、そういった将棋に関する面とは別に本書を読み面白いと感じたのは、大正期から昭和初頭つまりは戦前の人々の生活、風俗が垣間見られたことである。


 木村の生家は貧しい下駄職人の家であり、幼い弟を病で亡くしたり、妹を口減らしのために他家へ出さざるを得ないということもあった。また木村が少年の頃に病気で亡くなった母は、たった一度しか病院へ行くことができなかった。そういった剥き出しの貧しさに、木村義雄という窓を通して触れることができた。
 また、とうとう店立を食うという事態に至った木村一家を助け住まわせてくれたのも、同じように貧しい人たちだった。貧乏人が寄り添いながら暮らしていく風景など、現代から見れば容易には想像できないが、そういった風景を知ることができた。


 貧困にあえぐ人々がいる反面、当時はまだ華族がいた時代でもある。華族の人間は有望な若者を養ったり、文化の保護者となったりすることがあった。事実木村義雄も、好んで将棋を援助した柳沢保恵伯爵家に書生として住み込み、慶應普通科に通った。これこそ、かつて日本にもあった社会的階級の一例であろう。


 木村一家が浸かっていた貧しさや、華族との関わりは本書の主題ではないかもしれない。しかしそういったバックグラウンドもしっかり描かれていることによって、木村義雄という棋士の姿が一層際立って見えてくる。そして私はその背景の方に、より強い面白さを感じたのである。


 余談になるが、本書の最後の文章は木村義雄の父について綴られている。また本書のうちで、木村が家族について書いた文章からは優しさが色濃く感じられる。それはやはり、かつて貧しさのために甘んじて受け入れざるを得なかった苦しみ、悲しみが源となっているのだろう。


 もう一つ余談になるが、本書の巻末に「父の思い出」という木村義徳木村義雄の三男)の文章が載せられている。そこに義徳が祖父(つまり義雄の父)から聞いた明治末の逸話が少しだけ書かれている。中にはコレラが流行ると魚が安くなり、ここぞと庶民が刺身を食べるというものがある。とても興味深く読んだ。


ある勝負師の生涯―将棋一代 (文春文庫)

ある勝負師の生涯―将棋一代 (文春文庫)