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佐賀純一『戦争の話を聞かせてくれませんか』感想  〜戦争と日常の距離〜

 私は戦争を知らない世代の人間です。ただ、祖父母や数人の先輩方から戦争体験を聞いたことがありました。
 本書『戦争の話を聞かせてくれませんか』は、佐賀純一が市井のごく無名の方々が語る戦争体験に耳を傾け、文章にまとめたものです。それらの体験談を読むに際し、わずかとはいえ私自身が戦争体験を聞いた記憶が、読み解くための有効な手がかりとなりました。
 自分が聞いた戦争の風景とは別の風景。しかし、それぞれが確かに繋っている戦争の風景を、本書を読み、知りました。


 各体験談に語られている内容は、もちろん凄惨なものが多いです。しかし一方で、戦争開始時期の日本国民の高揚、興奮を表した言葉もあります。なかでも印象的だった言葉は「夏目坂と焼夷弾」にありました。

 開戦の朝は、はっきり覚えています。七時のラジオで「帝国海軍は本八日未明西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり」という放送を家族全員で聞いて、全身が熱くなってワナワナと震えるような興奮を覚えました。

(※佐賀純一『戦争の話を聞かせてくれませんか』新潮文庫、2005、p123。以下引用は同書から)
 とかく戦争といえば消極的な言葉で語られがちですが、ある時代の日本人がそれを積極的に肯定していたことはやはり無視できません。そのことを強く思い知らされました。


 また不思議なことに、どの体験談を読んでいても言葉の端々から「戦争」のなかに「日常」を見いだそうという意思が感じられました。戦争と言う極限状態にありながらも、ささやかな日常がまだ残されていて、それを確認したいという欲望を多くの人が持っていたのかもしれません。あるいは長い時を経て、語り部たちは、戦争にも日常があったと感じたいと望んだのかもしれません。
 そういった戦争と日常の混ざり合いを理解するヒントになりそうな言葉が、筆者あとがきにありました。

戦争はいつの間にかどこからかやって来て、日常生活と同居し、やがて日常を占領したのだ。つまり日常の延長がいつの間にか戦争になっていたのだ

(同書 p376)
 おそらく日常を完全にふり払った戦争などありえないもので、だからこそ各人の戦争体験談には、死と隣り合わせになった状況にしては些か不思議な人間味ある精彩が帯びているのかもしれません。


 戦争体験者が次々と世を去るなか、ますます戦争の話はリアリティーを失っていくでしょう。本書のような作品はその流れに抗う小さな力になると思います。少しでも多くの人に読まれるとよいなと思います。

戦争の話を聞かせてくれませんか (新潮文庫)

戦争の話を聞かせてくれませんか (新潮文庫)