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ナイフとフォークで作るブログ

小説とアニメ、ときどき将棋とスポーツと何か。


羽生善治『大局観 ── 自分と戦って負けない心』を読んだ感想。

将棋 小説・文学

「大局観」の朧気な形

 タイトルは『大局観』とあるが、それについては最初に概括的に述べられていて、あとは時々言及される程度だ。つまり一冊通して「大局観」を語った本ではない。むしろエッセイ的な書き口で、テーマは各章各項ごとに変化する。
 それらのテーマはどれも、棋士羽生善治が将棋の道を歩む中で発見し身につけた心構え、考え方だ。それらが、棋士ではない読者も理解し、援用できるよう一般化されて著されている。


 あるいは羽生三冠(※1)の思考の上では、それらの心構え、考え方の総体として「大局観」が形作られるのかもしれない。いや、むしろそう解釈するほうが自然だ。「大局観」というと茫漠とした感もあるが、それぞれパーツごとに咀嚼していけば、結果として体中に「大局観」が備わるという寸法だ。
 一見、芯の見えづらい語り口でテーマを分散させながら、読者に知らぬ間に「大局観」の朧気な形を示そうというのが、『大局観』を著すにあたり羽生三冠が持った「大局観」なのかもしれない。
(※1:タイトル数は、平成26年5月12日現在。)


 『大局観』を読み思うことが四つあった。一つは羽生三冠の博識さ。二つ目はボキャブラリーの豊富さ。三つ目は比喩表現の分かり易さ。最後は、氏の好奇心の強さだ。
 以下、それらについて述べる。

博識さ

 羽生三冠の多読が、将棋界で有名らしいことを以前に『ニコニコ動画』の将棋中継で聞き知っていた。実際『大局観』を読むと、多くの書籍の言葉、内容が引用されている。なかには渡辺淳一『鈍感力』(p108)のようなベストセラー作品から、生物学者福岡伸一動的平衡』(p114)、ナシーム・ニコラス・タレブブラック・スワン』(p216)といった専門的な内容を含む作品などまであり、その読書範囲は広い。
 また、映画『アバター』(p174)、テレビドラマ『ハゲタカ』(p140)といった映像作品中の言葉の引用もある。他にも対談した人物、出会った人物の言葉や人となりも引き合いに出している。


 博識さと書いたが、それは単に物知りというだけのことではなく、見知った聞き知ったことを梃子として、思考を拡張できるか否かに意義があると思う。羽生三冠は経験からの情報を蓄積するだけでなく、それらを契機として自分の考えを深め、様々なテーマについて語っている。そこに博識さがある。

ボキャブラリーの豊富さ

 二つ目のボキャブラリーの豊富さだが、これは当然に上の博識さと結びついている。
 レスリングの伝説的選手で「霊長類最強の男」とまで呼ばれたアレクサンドル・カレリンは、レスリング上達の秘訣を聞かれた時に「読書をすることだ」(※2)と答えたという。「刻々と変化する状況を理解する語彙を蓄えろ」といった意図で語ったらしい。
(※2:いつ、どこで聞いたか失念してしまったが、「カレリン 名言」で検索すると同じようなエピソードがあるので完全な記憶違いではないはずだ。)


 羽生三冠が何かを意識して多くの書物に取り組んでいるか否かは不明だが、結果的に語彙を蓄え、それが棋力の向上にも益していると想像することは、あながち無理ではないだろう。

比喩表現の分かり易さ

 三つ目の比喩表現の分かり易さについては、それが読者の理解を助ける為になされている面もあるだろう。しかしそれ以上に、比喩が羽生三冠個人の自家薬籠中の思考方法のように思えるのである。それほど多くの比喩表現が織り込まれている。


 氏は将棋という確固とした世界の外にある言葉や意味を、将棋に結びつけて考えるという作業を繰り返してきたのではないか。その成果として豊富な比喩表現を獲得したとしてもおかしなことではない。羽生三冠の著す比喩表現が分かり易く、読者の頭にすんなりと入り得るのはそれ故ではないだろうか。

強い好奇心

 最後は羽生三冠の好奇心についてだ。多くの情報を摂取している氏の姿勢は何故だろうか。もちろん将棋の役に立つかもしれない、反対に気分転換になるかもしれないという理由もあるだろう。しかし『大局観』を読んでいて感じるのは、それ以上に、氏の飽くなき好奇心だ。


 この記事では上げなかったが、『大局観』の中には時事問題や社会の出来事に対する、羽生三冠の意見や感想なども散見される。あれほどに将棋の強い羽生三冠は、対局での忙しさに加え研究にも相当な時間を費やしているはずだ。しかしそれでも尚、外部にあって自分をとりまく世界、他者に視線を向ける姿は、凄いの一言に尽きる。
 もしそういった態度を可能にする動機があるならば、それは強い好奇心以外あり得ないように思う。『大局観』を読み、知ることのできた最も印象深い羽生善治の姿は、まさに好奇心の人ということなのである。