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伊坂幸太郎『オーデュボンの祈り』感想 〜城山と「勧善懲悪の物語が好きだ」ということの繋がり〜

 伊坂幸太郎の小説を初めて読んだ。読み始めた時には知らなかったのだけれど、この作品は伊坂のデビュー作とのこと。
 よいことだ。新しい作家に挑戦する際はデビュー作がうってつけだと思う。何故なら第一作を発表する時点で第二作、三作の出版を保証されている作家はまず居ないので、その作家の表現したいことの結晶をあからさまに読むことが出来るからだ。例えば村上春樹風の歌を聴け』の密度の濃さはその典型である。


 『オーデュボンの祈り』を読み、最も気に掛かった登場人物は警察官の城山だ。圧倒的に「悪」を体現した存在であり、物語に直接は関わってこない人物。主人公伊藤の恐怖の対象であることには違いはないが、城山を外して物語を再編成することも左程難しいことではない。ラストは少し変えなければならないけれど、それ以外は城山の登場するエピソードを丸っと除いてしまえばよい。


 ではなぜ城山が居るのか。城山はIndividualな個人なのではなく、「悪」という総体の象徴だからだ。

僕は、勧善懲悪の物語が好きだ。天網恢恢疎にして洩らさず、という諺だって、好きだ。なぜなら、現実はそうじゃないからだ。

伊坂幸太郎『オーデュボンの祈り』新潮文庫版p281)

 凄く単純な文章だ。作品の突飛な世界と「勧善懲悪の物語が好きだ」という直截的な心情の間の距離は遠い。グルグル回り続ける巡回バスのようになかなか終着点の見えない物語において、やけに真っ直ぐに書かれている。そしてこの文章は、あの城山と共鳴する。「悪」の象徴城山が居なければこの文章の存在意義は失われる。


 思うにこれは伊坂の意思表明ではないだろうか。『オーデュボンの祈り』という不思議な物語を書きながら、同時に書き残さずには居られなかった伊坂の意志の存在をここに感じる。
 「勧善懲悪の物語が好きだ。(中略)現実はそうじゃないからだ。」ということこそが彼が小説で表現したいことの結晶ではないだろうか。処女作には往々にして、その結晶が隠されているのである。
 もちろんこの予測は未だ個人的な仮説にしか過ぎない。しかし少なくとも、これから伊坂幸太郎の他の作品を読む際の手掛かりを手に入れた手応えは、しっかりとある。

オーデュボンの祈り (新潮文庫)

オーデュボンの祈り (新潮文庫)