ナイフとフォークで作るブログ

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本谷有希子『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』感想  〜期待と、その核にある真摯さ〜

 『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』。格好いいタイトルです。このタイトルを持って駄作があるとは到底思えません。実際、面白い小説でした。

期待

 物語を読み解く際の一つの手掛かりとして、登場人物それぞれが持つ期待の方向と大きさに注目するようにしています。本作は、その読解方法が気持ち良いほどに嵌る、まさに期待についての物語でした。

澄伽、あるいは肥大する期待

 澄伽の期待は肥大しています。自分は唯一無二の存在で、女優に成るべき人間なのだ、と。それを理解できない他人に辟易しながら、決して自分を疑うことはありません。

清深、あるいは押し殺される期待

 清深は期待を押し殺しています。滑稽なまでに自意識を肥大させた姉澄伽に対する、その不可解な姿をもっと晒して欲しいという期待と、それを漫画のネタにしたいという気持ちを押し殺しています。

宍道、あるいは与えられる期待

 宍道の期待は与えられます。他人から理解されない澄伽の自意識を満足(安心)させるために、彼女に期待を与え続けます。

待子、あるいは放棄された期待

 待子は期待を放棄しています。生まれてこの方、最悪のちょっと上を生きてきた彼女は何にも期待していません。そしてある面では、彼女が宍道に抱いた唯一の期待がこの物語を終わらせたのかもしれません。

真摯さ

 四人の、それぞれの期待の有り様はバラバラですが、それが組み合わされることで期待についてのグロテスクな小説が形作られています。もちろん物語はそれほど単純ではないので、他にも様々な感情や出来事、関係性が描かれます。けれど人の持つ期待を、これほど鋭く直截的に表現した小説は決して多くはないはずです。
 そして期待という心情、そして行為がストレートに描かれる『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』という小説は、一見して歪な人間たちのドラマだという印象を受けます。
 しかし同時に、それぞれの期待を背負う彼らの姿を注意深く観察すると、その根底にある真摯さが浮かび上がります。


 澄伽は自らへの期待を疑わず、清深は自らの期待に強い罪悪感を覚え、宍道は期待を与えることに殉じます。そして待子の期待を持つことへの諦めが、きっと澄伽を救うはずです。
 本作は、登場人物たちの異常とさえ見える期待について語りながら、他方では、その期待の核を形成している真摯さをも掬いあげた作品なのだと感じています。
 そのような点で、本谷有希子腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』はとても面白い小説でした。

腑抜けども、悲しみの愛を見せろ (講談社文庫)

腑抜けども、悲しみの愛を見せろ (講談社文庫)

『長門有希ちゃんの消失』見終えた感想。

 『長門有希ちゃんの消失』面白かったです。『涼宮ハルヒの憂鬱』シリーズは読んでいるのですが、こちらの原作は全く触れていず、先入観なく見れたので新鮮でもありました。


 正直、13話「長門有希ちゃんの消失III」を見たときに、切ないけれど良い最終回だったと思いました。そう思っているところに次回予告が流れたときは、本当にビックリしました。そこからあと3話の物語があり全16話で終了したわけですが、やはり13話がピークだったと思います。
 11〜13話「長門有希ちゃんの消失Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ」ではEDも別バージョンに変わっていて、それを見るたび目頭を熱くしていました。記憶があるにも関わらず、世界と切断された存在として居ることの不安、悲しみが端的に伝わってきたからです。個人的には13話に、あのEDで最終回でもよかったのですが。


 そして作品の最終的な結末は、この手があったかというか、むしろこの手しか無かったかという結末でした。これについてはコメントの仕様もないです。ああ、そうだよなと肩をすくめるくらいしかできません。


 『長門有希ちゃんの消失』の「長門有希ちゃん」は非常に可愛らしく、オリジナル「長門有希」とは違い、マイペースでおっちょこちょいな性格でした。ただ、芯にある靭やかさは両人に共通しているようです。
 その「長門有希ちゃん」が魅力的なキャラクターであることは否定しません。けれど自分自身が完全に涼宮ハルヒに感情移入してしまっているので。むしろあのラストに、ほっとしたことは否定しません。


 開始当初、製作会社が京アニではないのであまり期待していなかったのですが、最後まで見終えて、なるほど面白い作品だったと思います。自分を押し殺している感のある「長門有希」に、こういった自由に振る舞える舞台が用意されたことが、とても素敵なことに感じられるからです。


 ところで『涼宮ハルヒシリーズ』の新刊はいつ出るのでしょうか???

東野圭吾『眠りの森』感想  〜浮つく加賀恭一郎〜

 『眠りの森』を読み始めたとき、加賀恭一郎が浮ついていると感じました。あからさまにバレエダンサー浅岡未緒にうつつを抜かしていたからです。しかし最後まで読んで納得しました。本作は当然推理小説ですが、同時に男女の出会いの物語だったのです。


 一度だけ見たバレエで心惹かれたダンサーに、事件を通じて出会う。なんともロマンチックなストーリーです。しかしこのやや装飾的過ぎるともいえる展開も、読み通すと加賀恭一郎らしい生まじめな物語に仕上がっていました。
 最初に浮つく加賀恭一郎を描写したのは、やはり伏線でしょう。推理小説にしては些か軽佻ともいえるセリフを差し挟む(※)ことで、読者に違和感を与え、加賀恭一郎の浅岡未緒へのただならぬ想いを示唆していました。


 しかし、さしもの東野圭吾。その導入を過ぎると事件をめぐるミステリーを中心に据え、加賀恭一郎の想いは抑制的に描きます。そうすることで一度は浮ついた作品に重みを取り戻しています。そのバランスは東野圭吾が意識的に調整したはずです。
 そして最後の最後に、加賀恭一郎の想いを一気に発露させます。そこまで読んで、始まりからの加賀恭一郎の気持ちの強さが理解できるのです。


 あくまで事件と推理を中心に置きつつ、その始まりと終わりを男女の出会いについての物語で挟んだところが『眠りの森』という作品の優れた個性だと思います。
 しかもその始めと終わりの部分が決して断絶しているのではなく、事件解決の推移と平行する物語としてしっかり繋がっています。
 つまり本作は推理小説としてだけでなく、同時に、恋愛小説としても魅力的な作品なのです。そして、その作品構成を成功させた東野圭吾の筆力は、流石の一言に尽きます。


 ※:最初の事件当夜、車で浅岡未緒を家まで送る加賀恭一郎は、彼女に希望を与えるような予断を許す話し方をしています。これは推理小説の主人公にしては随分軽はずみに思われます。
 そして極めつけは別れ際の「加賀です。加賀百万石の加賀」。
 殺人が絡む推理小説の冒頭に、女性に自分の存在をアピールするセリフを言うのは、あまり相応しいものと思えません。その辺りはすべて東野圭吾の張った伏線でしょう。(東野圭吾『眠りの森』講談社文庫版、p21〜p24)

眠りの森 (講談社文庫)

眠りの森 (講談社文庫)