ナイフとフォークで作るブログ

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つくみず『少女終末旅行』2巻の感想  〜 文明を葬送する二人 〜

『少女終末旅行』

 チトとユーリ、二人の少女が文明の崩壊した終末世界を愛車のケッテンクラートで旅をする物語。それが『少女終末旅行』です。実際は文明が崩壊したと明言されていないですし、チトとユーリの移動が旅と呼べるものかも定かではありません。まあしかし、とにかくそういった物語です。

平和な終末

 終末というと、荒廃した危険な世界(『北斗の拳』や『AKIRA』、『マッドマックス』など色々あります)というイメージと結びつきやすいかと思われますが、本作は違います。
 生存している人間はごくごく少数で、かつ悪意を持ったような人物は(いまのところ)見受けられません。放射能による汚染もないようです。また、獰猛な野獣がいるとか、人工知能を持った殺戮兵器が闊歩している様子もありません。
 チトとユーリが旅する終末世界は、人のほとんど残っていない、しかしどことなく平和な世界です。

文明の葬送

 『少女終末旅行』1巻(特に前半)では彼女たちの生活風景が描かれていました。そのあたりから本作を、舞台の特殊な日常系作品として受容する向きもあるようです。ただ、それを以って『少女終末旅行』を、日常漫画としてだけ認識するのは些か詰まらなく感じます。
 日常についてのエピソードがあると同時に、本作は別なテーマも有していると考えるからです。そのテーマは、文明の葬送です。


 1巻の後半には、失われた「本」についてのエピソード、また「地図」を巡るカナザワとの話が描かれています。そして2巻では「カメラ」や「音楽」、そして「飛行機」とイシイについての物語が取り上げられています。それらはどれも文明が生み出した事物です。
 チトとユーリは、それら文明の名残に接することで、細々とであれその文明を継承したのでしょうか。いいえ、違うでしょう。むしろ彼女たちが文明の遺物に触れることで、それら遺物は最後の姿を白日に晒し、昇天していくのです。
 その昇天を見守り、葬送する者がチトとユーリです。事実「地図」は飛散し、「飛行機」は落下していきます。それらは、最後の姿を葬送者である二人の少女の眼前に晒し、天に昇ったのです。


 チトとユーリの旅(移動)の行く先は今はまだ分かりません。さしあたっては食料と燃料を補給し、それらがより多く残ていそうな方角へと進んでいるようです。
 しかし一方で、その道中に出会う様々な文明の名残を葬っていくことが、彼女たちの旅の、意図せざる(あるいは絶対者から託された)目的のように思われてなりません。

少女終末旅行 2 (BUNCH COMICS)

少女終末旅行 2 (BUNCH COMICS)

東野圭吾『変身』と『長門有希ちゃんの消失』の共通項  〜人格の変化と、記憶の維持〜

 十日ほど前に東野圭吾『変身』を読みました。ちょうど『長門有希ちゃんの消失』の最終回を見た直後でした。この二作品、あまり同じ話題の中で語られることはなさそうです。しかし両作品が有す一つの共通点に気が付きました。
 その共通点は「記憶を維持した状態での人格変化」です。


 『変身』は脳の移植手術を受けた主人公成瀬純一が、ドナーの人格によって、自己の人格が蝕まれていく物語です。
 一方『長門有希ちゃんの消失』では第11〜13話(「長門有希ちゃんの消失I、Ⅱ、Ⅲ」)に、事故の影響で人格を変化させた主人公長門有希が登場します。
 成瀬純一と長門有希、どちらの場合も人格を変化させながら、記憶は維持しています。


 「記憶を維持した状態での人格変化」という共通項があるからといって、両者を並べて考える必要があるかと問われると、おそらくないと言わざるを得ません。ただ個人的体験として面白く思うのは、そういった共通項を持つ作品に同時期に出会ったことです。
 このような自己内でのシンクロニシティは、作品をより楽しむ手掛かりとして大切だと感じます。先に両者を並べて考える必要性はないと述べましたが、やはり双方が補い合うようにして、登場人物の心情を伝えてくるように感じられるからです。


 『変身』の成瀬純一と『長門有希ちゃんの消失』の長門有希はそれぞれに、人格を変化させることで周囲から切断された(されようとしている)ことへの不安や、不安定さを、異なる側面から表明しています。
 しかし作品の受け手である私は、本来無関係なはずの両者の心情を重ね合わせ、片方を見るだけでは分からない部分まで理解しようとしてしまいます。より正確に言えば、理解した気になってしまいます。


 このような理解の仕方は、客観的に見ればまったく恣意的です。ましてその理解に基づいて何か述べようとするならば、それは勝手読みの誹りを免れません。
 ただ、本を読み、アニメを見る一受容者のごく個人的な感想の範疇で『変身』と『長門有希ちゃんの消失』の間に共通項を見つけ、そこに意味を見出すことの意義までは否定できないと思います。
 そういった意義に関して『変身』と『長門有希ちゃんの消失』に同時期的に接することができたのは、なかなか愉快な体験だったと感じています。

変身 (講談社文庫)

変身 (講談社文庫)

本谷有希子『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』感想  〜期待と、その核にある真摯さ〜

 『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』。格好いいタイトルです。このタイトルを持って駄作があるとは到底思えません。実際、面白い小説でした。

期待

 物語を読み解く際の一つの手掛かりとして、登場人物それぞれが持つ期待の方向と大きさに注目するようにしています。本作は、その読解方法が気持ち良いほどに嵌る、まさに期待についての物語でした。

澄伽、あるいは肥大する期待

 澄伽の期待は肥大しています。自分は唯一無二の存在で、女優に成るべき人間なのだ、と。それを理解できない他人に辟易しながら、決して自分を疑うことはありません。

清深、あるいは押し殺される期待

 清深は期待を押し殺しています。滑稽なまでに自意識を肥大させた姉澄伽に対する、その不可解な姿をもっと晒して欲しいという期待と、それを漫画のネタにしたいという気持ちを押し殺しています。

宍道、あるいは与えられる期待

 宍道の期待は与えられます。他人から理解されない澄伽の自意識を満足(安心)させるために、彼女に期待を与え続けます。

待子、あるいは放棄された期待

 待子は期待を放棄しています。生まれてこの方、最悪のちょっと上を生きてきた彼女は何にも期待していません。そしてある面では、彼女が宍道に抱いた唯一の期待がこの物語を終わらせたのかもしれません。

真摯さ

 四人の、それぞれの期待の有り様はバラバラですが、それが組み合わされることで期待についてのグロテスクな小説が形作られています。もちろん物語はそれほど単純ではないので、他にも様々な感情や出来事、関係性が描かれます。けれど人の持つ期待を、これほど鋭く直截的に表現した小説は決して多くはないはずです。
 そして期待という心情、そして行為がストレートに描かれる『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』という小説は、一見して歪な人間たちのドラマだという印象を受けます。
 しかし同時に、それぞれの期待を背負う彼らの姿を注意深く観察すると、その根底にある真摯さが浮かび上がります。


 澄伽は自らへの期待を疑わず、清深は自らの期待に強い罪悪感を覚え、宍道は期待を与えることに殉じます。そして待子の期待を持つことへの諦めが、きっと澄伽を救うはずです。
 本作は、登場人物たちの異常とさえ見える期待について語りながら、他方では、その期待の核を形成している真摯さをも掬いあげた作品なのだと感じています。
 そのような点で、本谷有希子腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』はとても面白い小説でした。

腑抜けども、悲しみの愛を見せろ (講談社文庫)

腑抜けども、悲しみの愛を見せろ (講談社文庫)