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綿矢りさ『勝手にふるえてろ』感想。  〜 ふるえてるのは、綿矢りさ 〜

 「もういい、想っている私に美がある。イチはしょせん、ヒトだもの。しょせん、ほ乳類だもの。私のなかで十二年間育ちつづけた愛こそが美しい。イチなんか、勝手にふるえてろ」(綿矢りさ勝手にふるえてろ』文春文庫版 p131)

『インストール』『蹴りたい背中』から『勝手にふるえてろ』へ

 この一年半ほどの間に『インストール』(河出文庫版)、『蹴りたい背中』(河出文庫版)、『勝手にふるえてろ』と、三冊の綿矢りさ作品を読んだ。それぞれ発表年度は順に2001年、2003年、2010年だ。
 もちろん、これが綿矢作品の全てではない。それでも無理矢理にでも、前の二作から『勝手にふるえてろ』に至った綿矢さんの変化と、変わらぬ頑なさについて書きたいと思った。中途半端な知識で書く訳で、無意味な文章が生まれるだけかもしれない。けれど、知らないが故の思い切った見方は今しかできない。その見方の何たるかを残しておきたいのだ。

物語の意志/主題(断絶)

 冒頭引用文にある「私のなかで十二年間育ちつづけた愛」とは、綿矢りさが物語を書き続ける意志のように思える。そして「勝手にふるえてろ」と言われたイチは、綿矢りさが書き続ける物語の主題(※1)だ。
 『インストール』、『蹴りたい背中』と読んでいるうちは、ヒロイン(※2)に物語の主題が仮託されていると理解していた。しかし『勝手にふるえてろ』の上の文章を読み、物語の主題はヒロインだけでなく、対で登場するもう一人の主要人物である男性(※3)にも委ねられていると気がついた。
 なぜ『インストール』『蹴りたい背中』では気が付かず『勝手にふるえてろ』で思い至ったのか。前二作のヒロインと男性は、概ね似た種類の気分を共有する者同士だった。そのために気が付くのが難しかった。しかし『勝手にふるえてろ』のヨシカとイチの間には断絶がある。
 (※1:この物語の主題については後述する)
 (※2:『インストール』野田朝子、『蹴りたい背中』長谷川初実/ハツ、『勝手にふるえってろ』江藤良香/ヨシカ)
 (※3:『インストール』青木かずよし、『蹴りたい背中』にな川智、『勝手にふるえてろ』一宮/イチ)


 「ごめん。なんていう名前だったか思い出せなくて」(『勝手にふるえてろ』p106)。


 この一言で決定的となったヨシカとイチの断絶は、ストーリーとして切なく、同時に、綿矢りさ自身の切なさでもある。
 物語を書こうという意志と、物語の主題が結びつかない。2001年の綿矢りさには、或る物語の主題が有り、その物語を書こうという意志があった。その両者は、幸福に結びついていた。だからこそ『インストール』という作品の素晴らしさがある。

『インストール』の文章

 少し話題がずれるが、『インストール』の文章の奔放さ、自由さは稀有だ。そこまで意図したかどうかは分からないが、文体さえがあった。なんの気負いもなく、一人の作家の物語が、純粋にそのままの姿で文章に定着された作品が『インストール』だった。


 確かに『蹴りたい背中』も評価され、大きな賞も獲得したが、それですら文章から感じられる息苦しさは拭い切れない。
 「あなたたちは微生物を見てはしゃいでるみたいですけど(苦笑)、私はちょっと遠慮しておく、だってもう高校生だし。ま、あなたたちを横目で見ながらプリントでも千切ってますよ、気怠く。っていうこのスタンス」(綿矢りさ蹴りたい背中河出文庫版 p7)の斜に構えたシニカルさは、『インストール』には無い。


 「私もゴミ化している。それを見た私は死にたーい、と思った。しかし私はそれが嬉しいのである。ほのかにそんな落ちぶれた自分を格好良く思いながらわくわく、私はさらに寝転がってみた。ポーズ。私はこうやってすぐ変人ぶりたがる。あさましく緊張しながら奇抜な行動をやらかす。こんなふうに地べたに横たわるのが私の表現できる精一杯の個性なのだ」(綿矢りさ『インストール』河出文庫版 p23)。
 ここに強く示されているような文章の素直さと、冒険心が『インストール』には有る。徹底的な自分語り。それはそのまま綿矢りさの「物語」だった。

再び、物語の意志/主題(別離)

 閑話休題
 『蹴りたい背中』までの綿矢作品の、ヒロインと男性は両者が混ぜ合わさりながら、物語の主題と、物語を書く意志を表していた。一方でその両者が、腑分けされ別々の人物に託された作品が『勝手にふるえてろ』だ。
 分かりにくい図式ではあるが、「勝手にふるえてろ」と言われた対象のイチもまた、綿矢りさ本人なのだ。
 イチは綿矢りさの描く、物語の主題である。ヒロインのヨシカは、イチを捨て、ニと結ばれる道を選ぶ。それはまるで、綿矢りさが自ら抱き続けた物語の主題を、自ら捨てた姿に見える。その、物語の主題を捨てるまでの逡巡を描いた作品が『勝手にふるえてろ』である。
 ヨシカはイチに「勝手にふるえてろ」と言った。しかしイチこそは物語の主題であり同時に、ふるえるイチは、自ら捨てた物語の主題との別れに、震える綿矢りさ自身を象徴する。

物語の主題(「自己から他者への、一方向的な関係性の構築(適正化)」)

 では、綿矢りさが『インストール』以来抱き続け、『勝手にふるえてろ』で手放そうとしている物語の主題とは一体何か。それは「自己から他者への、一方向的な関係性の構築(適正化)」だ。


 『インストール』の終わり近く、「忘れていた真面目な本能が体の奥でくすぶっていた」(『インストール』p129)とある。「真面目な本能」はつまり、その直前に書かれているように「今私は人間に会いたいと感じている。昔からの私を知っていて、そしてすぐに行き過ぎてしまわない、生身の人間達に沢山会って、その人達を大切にしたいと思った」ということだ。
 また『蹴りたい背中』のラストのページには、「いためつけたい。蹴りたい。愛しさよりも、もっと強い気持ちで。足をそっと伸ばして爪先を彼の背中に押し付けたら、力が入って、親指の骨が軽くぽきっと鳴った」(『蹴りたい背中』p172)と書かれている。


 どちらも、他者との繋がり、関係性を求めるヒロインの姿だ。『インストール』ではパソコンのディスプレイを通して、『蹴りたい背中』では背中を蹴るという行為を通じてでしか他者と関わることができなかったヒロインが、現状から一歩だけ足を踏み出す。
 「生身の人間」はディスプレイの向こうの誰かと対比させられ、「爪先を彼の背中に押し付けた」という行為には、「蹴る」という一方的で、刹那的な行為とは別な感情が込められている。
 このように、ヒロインが他者との関係性の在り様に藻掻きながら、何らかの経験を経て、最初とは違う関係性を発見(獲得)する。それが綿矢りさの物語の主題なのだ。

勝手にふるえてろ』における物語の主題の扱い

 ならば、その主題を『勝ってにふるえてろ』はどう扱っているのだろうか。
 「各部署からのいい加減な精算書や営業からの伝票をチェックして電卓で数字を確認しながらデータをエクセルに打ち込む経理の仕事をしているとき、私を支えているのは怒りと軽蔑だ」(『勝手にふるえてろ』p83)。
 この各部署を象徴する存在がニだ。ニの言うことには、ニが初めてヨシカとしゃべったとき、彼はいい加減な精算書のことをヨシカに叱られたという。つまりそのときヨシカにとって、ニは「怒りと軽蔑」の対象だった。
 それにも関わらず、作品の最後、ニとの交際を選択するヒロインは、困難さを経て、新たな他者との関係性を手しにしたのだろうか。確かにニという他者と結ばれたのならば、そのように見えなくはない。
 しかし、それは違う。『インストール』と『蹴りたい背中』のヒロインはあくまで、自分から他者に向かって行った(あるいは向かっていく意志を示している)。けれど『勝手にふるえてろ』のヨシカは、自分を受け入れてくれる他者に逃げ出しただけだ。
 つまり、かつて綿矢りさの物語にあった「自己から他者への、一方向的な関係性の構築(適正化)」という主題は『勝手にふるえてろ』からは見付けられないのである。以前の綿矢作品であれば、ヒロインはニでなくして、イチに向かって行っただろう。しかし彼女は、イチから手を引く。

勝手にふるえてろ

 「勝手にふるえてろ」といったヨシカの視線の先には、イチだけではなく作者自身が居た。それはどういうことか。
 「勝手にふるえてろ」という台詞と、『勝手にふるえてろ』という小説は、綿矢りさにとって、もう他者と自己が違うだなどと自己を特別視して浮かれたり、怯えたりするのは辞めます、という宣言だ。結局、他人も自分も同じで、「私の表現できる精一杯の個性」なんて多寡が知れているということを受け入れる決意の顕れだ。


 もし、自己と他者が同じような存在ならば、そこにある関係性に悩む必要など無い。ふるえる必要などもない。
 そして、たとえその自他の同一性を受け入れたとしても「私のなかで十二年間育ちつづけた愛」、すなわち物語を綴ることへの意志の方にこそ美しさがある。価値がある。そのことを自分自身に(そして読者に)伝えるために、彼女は『勝手にふるえてろ』を書いたように感じている。

勝手にふるえてろ (文春文庫)

勝手にふるえてろ (文春文庫)