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『かぐや姫の物語』にアカデミー賞が与えられなかった日に

 本日(日本時間2015年2月23日)アカデミー賞の授賞式が行われた。残念なことに『かぐや姫の物語』の長編アニメーション部門での受賞は叶わなかった。
 『かぐや姫の物語』は日本はおろか、世界のアニメーションの歴史においても稀有な名作だと思う。ユニークな描画方法、躍動する動きと、その一方での戯画化されたおかしみある動きの調和、作品の基礎となる文化への深い洞察、美しいキャラクター等々、理由は様々あげられる。


 その『かぐや姫の物語』にアカデミー賞は与えられなかった。何故か。
 一つ思うことは、カタルシスの希薄さだ。この作品は観客の心の浄化を求めてはいない。むしろ観る人によっては、理不尽とさえ感じられる結末になっている。
 『かぐや姫の物語』公開前に配布されていたチラシの裏高畑勲の文章が書かれている。そこに「かぐや姫を、感情移入さえ可能な人物として、人の心に残すことができるはずだ」とある。
 かつて高畑勲が「物語とは心を描くものだ」といった趣旨のことを述べているのを聞いた(※)。『かぐや姫の物語』には、彼が『竹取物語』から掬い上げたかぐや姫の心が描かれている。その心の有り様は、触れた人の心の痛みを取り除いてくれるような種類のものではない、むしろ痛みを増すことさえある。それもまた感情移入の可能性の内だ。


 アカデミー賞という権威がなくとも『かぐや姫の物語は』は名作である。しかし、権威を得ることで後世から顧みられるきっかけとなることも否定できない。たとえ金字塔であっても、訪れるものがなければやはり寂しい。そのことが残念なのだ。


 ※ 2013年12月7日に札幌プラザ2.5で行われた『柳川堀割物語』上映会後の講演において。