「分を弁える」ということ 〜宮﨑駿『風立ちぬ』から感じたこと〜
先週の金曜日に『風立ちぬ』が地上波初放送されました。その番組は見逃してしまいましたが、以前劇場で観た『風立ちぬ』のことを考えていました。
『風立ちぬ』で印象的なシーンにひとつに、二郎と菜穂子の黒川宅における祝言の場面が有ります。この場面で二郎の上司である黒川は、突然請われた仲人を務めます。この黒川の姿を思い出している内に、「分を弁える」という言葉についてある解釈の仕方が浮かんできました。
「分を弁える」とは、立場や役割を理解し、それに適った振る舞いをするといった意味で、どちらかと言うと「型を外れない」イメージの消極的な言葉として使われているように思います。しかし果たしてそれだけで、分を弁えていると言えるのでしょうか。
祝言での黒川は、突然ではありながら仲人という大役を務め上げます。その様子から「分を弁える」についての、消極的ではない別な解釈が見えてきます。つまり、置かれた立場や役割を単に理解するだけでなく、より積極的にその立場/役割を全うし得ることも「分を弁える」には含まれるように思えるのです。
仲人を務めるということは、それまでの人生で相応の通過儀礼を経て、役割を果たすのにふさわしい存在となっている必要があります。そして、それは頭のなかのことだけではなく、実際に体を使った行動として顕れなければなりません。
この『風立ちぬ』の祝言に通ずる場面として、司馬遼太郎が『義経』で描いた源義経元服の場面があります。そこで義経は、たまたま宿りを共にした旅人に元服親の役を請います。この旅人もまた、黒川と同じように分を弁えた存在だったのです。
つまり、元服親という大事な役割を理解しているだけでなく、実際に務め得るということです。こういった役割/立場に対する分別だけにとどまらずに、行動し実現させられる事こそが、より積極的な意味での「分を弁える」ということではないでしょうか。
もちろん君主(目上)が臣下(目下)に要求する場合等、狭い関係内での「分を弁える」ということは、通常理解されている意味での受け身のものであり、そこに何ら間違いはありません。
しかし、より巨視的な観点で文化や伝統、風習を継承していくことを考えると、誰であれ黒川や『義経』の旅人のように、より実践的な心構えを持って「分を弁える」ことが求めらているようにも思えます。
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