ナイフとフォークで作るブログ

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東野圭吾『変身』と『長門有希ちゃんの消失』の共通項  〜人格の変化と、記憶の維持〜

 十日ほど前に東野圭吾『変身』を読みました。ちょうど『長門有希ちゃんの消失』の最終回を見た直後でした。この二作品、あまり同じ話題の中で語られることはなさそうです。しかし両作品が有す一つの共通点に気が付きました。
 その共通点は「記憶を維持した状態での人格変化」です。


 『変身』は脳の移植手術を受けた主人公成瀬純一が、ドナーの人格によって、自己の人格が蝕まれていく物語です。
 一方『長門有希ちゃんの消失』では第11〜13話(「長門有希ちゃんの消失I、Ⅱ、Ⅲ」)に、事故の影響で人格を変化させた主人公長門有希が登場します。
 成瀬純一と長門有希、どちらの場合も人格を変化させながら、記憶は維持しています。


 「記憶を維持した状態での人格変化」という共通項があるからといって、両者を並べて考える必要があるかと問われると、おそらくないと言わざるを得ません。ただ個人的体験として面白く思うのは、そういった共通項を持つ作品に同時期に出会ったことです。
 このような自己内でのシンクロニシティは、作品をより楽しむ手掛かりとして大切だと感じます。先に両者を並べて考える必要性はないと述べましたが、やはり双方が補い合うようにして、登場人物の心情を伝えてくるように感じられるからです。


 『変身』の成瀬純一と『長門有希ちゃんの消失』の長門有希はそれぞれに、人格を変化させることで周囲から切断された(されようとしている)ことへの不安や、不安定さを、異なる側面から表明しています。
 しかし作品の受け手である私は、本来無関係なはずの両者の心情を重ね合わせ、片方を見るだけでは分からない部分まで理解しようとしてしまいます。より正確に言えば、理解した気になってしまいます。


 このような理解の仕方は、客観的に見ればまったく恣意的です。ましてその理解に基づいて何か述べようとするならば、それは勝手読みの誹りを免れません。
 ただ、本を読み、アニメを見る一受容者のごく個人的な感想の範疇で『変身』と『長門有希ちゃんの消失』の間に共通項を見つけ、そこに意味を見出すことの意義までは否定できないと思います。
 そういった意義に関して『変身』と『長門有希ちゃんの消失』に同時期的に接することができたのは、なかなか愉快な体験だったと感じています。

変身 (講談社文庫)

変身 (講談社文庫)

本谷有希子『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』感想  〜期待と、その核にある真摯さ〜

 『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』。格好いいタイトルです。このタイトルを持って駄作があるとは到底思えません。実際、面白い小説でした。

期待

 物語を読み解く際の一つの手掛かりとして、登場人物それぞれが持つ期待の方向と大きさに注目するようにしています。本作は、その読解方法が気持ち良いほどに嵌る、まさに期待についての物語でした。

澄伽、あるいは肥大する期待

 澄伽の期待は肥大しています。自分は唯一無二の存在で、女優に成るべき人間なのだ、と。それを理解できない他人に辟易しながら、決して自分を疑うことはありません。

清深、あるいは押し殺される期待

 清深は期待を押し殺しています。滑稽なまでに自意識を肥大させた姉澄伽に対する、その不可解な姿をもっと晒して欲しいという期待と、それを漫画のネタにしたいという気持ちを押し殺しています。

宍道、あるいは与えられる期待

 宍道の期待は与えられます。他人から理解されない澄伽の自意識を満足(安心)させるために、彼女に期待を与え続けます。

待子、あるいは放棄された期待

 待子は期待を放棄しています。生まれてこの方、最悪のちょっと上を生きてきた彼女は何にも期待していません。そしてある面では、彼女が宍道に抱いた唯一の期待がこの物語を終わらせたのかもしれません。

真摯さ

 四人の、それぞれの期待の有り様はバラバラですが、それが組み合わされることで期待についてのグロテスクな小説が形作られています。もちろん物語はそれほど単純ではないので、他にも様々な感情や出来事、関係性が描かれます。けれど人の持つ期待を、これほど鋭く直截的に表現した小説は決して多くはないはずです。
 そして期待という心情、そして行為がストレートに描かれる『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』という小説は、一見して歪な人間たちのドラマだという印象を受けます。
 しかし同時に、それぞれの期待を背負う彼らの姿を注意深く観察すると、その根底にある真摯さが浮かび上がります。


 澄伽は自らへの期待を疑わず、清深は自らの期待に強い罪悪感を覚え、宍道は期待を与えることに殉じます。そして待子の期待を持つことへの諦めが、きっと澄伽を救うはずです。
 本作は、登場人物たちの異常とさえ見える期待について語りながら、他方では、その期待の核を形成している真摯さをも掬いあげた作品なのだと感じています。
 そのような点で、本谷有希子腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』はとても面白い小説でした。

腑抜けども、悲しみの愛を見せろ (講談社文庫)

腑抜けども、悲しみの愛を見せろ (講談社文庫)

『長門有希ちゃんの消失』見終えた感想。

 『長門有希ちゃんの消失』面白かったです。『涼宮ハルヒの憂鬱』シリーズは読んでいるのですが、こちらの原作は全く触れていず、先入観なく見れたので新鮮でもありました。


 正直、13話「長門有希ちゃんの消失III」を見たときに、切ないけれど良い最終回だったと思いました。そう思っているところに次回予告が流れたときは、本当にビックリしました。そこからあと3話の物語があり全16話で終了したわけですが、やはり13話がピークだったと思います。
 11〜13話「長門有希ちゃんの消失Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ」ではEDも別バージョンに変わっていて、それを見るたび目頭を熱くしていました。記憶があるにも関わらず、世界と切断された存在として居ることの不安、悲しみが端的に伝わってきたからです。個人的には13話に、あのEDで最終回でもよかったのですが。


 そして作品の最終的な結末は、この手があったかというか、むしろこの手しか無かったかという結末でした。これについてはコメントの仕様もないです。ああ、そうだよなと肩をすくめるくらいしかできません。


 『長門有希ちゃんの消失』の「長門有希ちゃん」は非常に可愛らしく、オリジナル「長門有希」とは違い、マイペースでおっちょこちょいな性格でした。ただ、芯にある靭やかさは両人に共通しているようです。
 その「長門有希ちゃん」が魅力的なキャラクターであることは否定しません。けれど自分自身が完全に涼宮ハルヒに感情移入してしまっているので。むしろあのラストに、ほっとしたことは否定しません。


 開始当初、製作会社が京アニではないのであまり期待していなかったのですが、最後まで見終えて、なるほど面白い作品だったと思います。自分を押し殺している感のある「長門有希」に、こういった自由に振る舞える舞台が用意されたことが、とても素敵なことに感じられるからです。


 ところで『涼宮ハルヒシリーズ』の新刊はいつ出るのでしょうか???