ナイフとフォークで作るブログ

小説とアニメ、ときどき将棋とスポーツと何か。


米澤穂信『いまさら翼といわれても』前篇を読んでの推理

 「野性時代」146号(2016年1月号)掲載の米澤穂信『いまさら翼といわれても』前篇を読んだ上での推理を記します。世間的には後篇が掲載される「野性時代」147号(2016年2月号)が発行されているはずですが、まだ書店から当方までは配達されておらず未読のため、読んで答えを知る前に、個人的な記録として推理を書き残します。


 解くべき事件というか謎は、千反田えるが出演予定の合唱祭本番目前に姿を消したことです。彼女は何故、どこへ行ってしまったのでしょうか。
 ここではまず、問題点を5W1Hに整理して推理します。


 まず明らかな点が3つ。

Who

 誰が?です。これは千反田えるです。

When

 いつ?です。これは現在進行形の事件なので今です。

What

 何が?です。これはどの点について何が?というのが曖昧ですが、とりあえず姿を消した点とします。


 つまり千反田えるが今、姿を消した状態にある。これが明らかな点です。事件の骨格とも言えます。


 次に折木奉太郎が推理するであろう点を2つ。

Where

 どこ?です。千反田えるはどこへ行ったのでしょうか。

となると、千反田がどこに行ったのか、少しは絞れてくる気がする。少なくとも、あそこではない……。

野性時代146号61頁下段。以下引用は同書より)
 と、奉太郎は考えています。あそこ、とは千反田が参加する神山混声合唱団の控室です。千反田と一緒のバスで会場まで来たらしい横手さんという女性は、千反田が傘を持っていたことを証言しています(57頁下段)。また、合唱祭の参加者は傘置き場として玄関ではなく控室の傘立てを利用することを、奉太郎は受付で確認しています(61頁中段)。しかし奉太郎が神山混声合唱団の控室に入った際に倒してしまった傘立てには、横手さんの傘しかありませんでした(53頁下段)。
 そういった点を鑑みて、彼は千反田が控室までは行っていないと推理したと思われます。


 では、より積極的に千反田はどこへ行ったのでしょうか。残念ながらそこまでは分かりませんでした。当てずっぽうで言えば「霧生」を上げたいです。根拠はないですが、部室での甘過ぎるコーヒーの謎談義のシーン(45頁中段)で地名が上がっていて気になったからです。もしかすると同じ部室にいた千反田の頭にもその地名が残っていて、行ってみたくなったのではないか程度の根拠薄弱な推理です。

How

 どうやって?です。千反田えるはどうやって姿を消したのでしょうか。これはバスに乗ってでしょう。奉太郎が里志にバスの路線図と時刻表を持って来て欲しいと頼んだ(59頁上段)ことから、彼がバスに注目していることが分かります。

陣出を通るバスの本数は予想通りに少なく、昼間は一時間に一本走っているきりのようだ。

(62頁上段)
 とあります。
 この記述から考えると、千反田は横手さんとバスに乗って会場まで来たのですが、下車しなかったのではないでしょうか。あるいは横手さんと同じバスには乗らなかったのかもしれません。
 またそうする理由を、横手さんには説明したものと思われます。横手さんが「心配は、しておりません」(58頁中段)と言っているのもそのためでしょう。


 ではどうして下車しなかったと考えるのかというと、もし下車していれば次のバスはすぐは来ないので、それを待つまでの間に伊原摩耶花に会っていた可能性が高いからです。
 また、横手さんと同じバスに乗らなかった可能性についてですが、これは折木奉太郎が「陣出を通るバス」を確認しているからです。彼は陣出を通る別の路線のバスに注目しているのかもしれません。


 最後に奉太郎には解けないであろう1点についてです。

Why

 何故?です。この点についてはむしろ読者の方が知っているはずです。作品の冒頭で千反田は父に話があると呼ばれています。その話がだいじであるらしいことは仏間を使用した(43頁下段)ことから伺い知れます。そこで話された内容こそが千反田が姿を消した理由の大本でしょう。
 ではその内容はなんでしょうか。おそらくは進路についてです。さらに言うと、千反田自身が家を継ぐつもりであることに対し、何らかの影響を与える話だったと予想されます。


 なぜ進路に関わることなのか、それは部室でのシーンで彼女が進路案内の本を読んでいた(50頁下段)ことから想像できます。また「千反田は元より、家を継ぐという自分の行く先をはっきりと見定めている。」(44頁下段)という記述が作品の冒頭近い部分にあり、本作が進路に関係した作品であることを示唆しています。


 千反田の進路についての悩みと合唱は、いったいどこで繋がるのでしょうか。その答えは彼女が歌う予定である『放生の月』という歌の詞にありそうです。その歌詞は鳥のように自由に飛び、生きたいというものです(60頁中段)。これは家を継ぐことを見据え、地道に歩む千反田の心情とは相容れません。
 しかしもちろん、心情と相容れないからと言って歌いたくないというのもおかしな話です。けれどそうまで至ってしまう理由が、千反田と父との話にはあったのです。千反田は、父から、必ずしも家を継ぐ必要はないというようなことを言われたのではないでしょうか。さしもの奉太郎もこの点は予想できないはずです。そう考える材料が彼には与えられていません。
 けれど、読者は当然に知っている『いまさら翼といわれても』という作品タイトルはそのことを示唆しているように思われます。突然に父から与えられた自由に対する戸惑いや不安(不満?)故に、千反田は『放生の月』を歌う気持ちになれないのかもしれません。


 また、部室でのシーンで砂糖黍や甜菜をいつか作ったりしないのかと問われた千反田が「……わかりません。すみません」(47頁)と応えています。この「わかりません」からは二重の意味が感じ取れます。ひとつは単純に今はその予定がないこと。そしてもう一つは、自分自身が家業の農家を継ぐかどうかも分からなくなっているということです。


 以上のような千反田の進路についての悩みが、彼女が姿を消した理由の根底にあるのだと考えられます。


 5W1Hについての推理ははこれで終わりです。そして本当に最後に一つ別な点について書きます。

見つけた後が問題だろう

そしておそらくは、見つけた後が問題だろう  

(62頁下段)
 と、作品のほぼ最後に書かれています。奉太郎がこのように考える理由は何故でしょうか。一見、悩む千反田を説得して連れ戻してくることが難しいと言っているようです。しかしそうではなく、彼は少ないバスの本数という物理的な問題を見ているのではないでしょうか。
 つまりは、もし千反田を見つけても、そこから合唱祭会場まで彼女を連れてくる手段がないことを危惧しているように思えるのです。


 以上が『いまさら翼といわれても』前篇を読んでの推理でした。後篇を読むのがとても楽しみです。


 追記(2016/1/14/9:41):千反田はバスに乗ってどこかへ行ったのではなく、陣出からバスに乗らなかった可能性はないでしょうか。横手さんには「ちょっと考えたいことがあるので一本後のバスに乗ります」といったようなことを言って、同じバスには乗らなかった可能性です。
 前篇の終わりの時点で「千反田の出番まで、あと一時間四十五分」(62頁下段)とあります。上の「How」の部分で確認したように陣出を通るバスは1時間に1本程度しかありません。となると奉太郎が会場から陣出まで行き、千反田を見つけ連れてくるために必要な時間が、場合によっては2時間近く掛かるはずです。だからこそ奉太郎は「そしておそらくは、見つけた後が問題だろう」(62頁下段)と考えたのかもしれません。
 以上ふと思いついたので、追記しました。

小説 野性時代 第147号 (KADOKAWA文芸MOOK 149)

小説 野性時代 第147号 (KADOKAWA文芸MOOK 149)

小説 野性時代 第146号 (KADOKAWA文芸MOOK 148)

小説 野性時代 第146号 (KADOKAWA文芸MOOK 148)

森見登美彦『太陽の塔』を読んで 〜私と水尾さんと太陽の塔〜

 太陽の塔は主人公「私」にとって偉大であり、かつての恋人水尾さんを見るための偉大な照射装置であり、作品のタイトルでもある。けれど京都にはない。


 『太陽の塔』の舞台はどっぷり京都で、太陽の塔はそこにはない。晴れ渡った日に「太陽の塔が見えますなあ」ということもないし。まして叡山電車に乗って行けるべくもない。だから京都と太陽の塔は、遠いともいえる。
 とはいっても、どちらも関西にあり公共交通機関を幾つか乗り継げば行けるので、近いともいえる。この微妙な距離感が面白い。


 その太陽の塔を、ひたすらドライに物語構成上の装置として見ると、それは他の何かと置き換え可能でもある。京都タワーでもよいし、祇園会館の栗山四号映写機などは別な魅力を放つやも知れぬ。だが、やはり太陽の塔が必要なのだ。
 「私」の妄想を越え、一つ街に暮らす男女が叡山電車に乗り、そこにないはずの太陽の塔ヘ向かうファンタジーが存在するためには、太陽の塔が必要なのだ。


 ただ作品を読み終え、改めて「私」と水尾さんに未来があるとは感じない。しかしなお太陽の塔は屹立し続けるし、二人の間から忘れ去られることもない。
 「私」に限らず、別れた誰かの面影を感じる何かを持つ人は多いと思う。その何かが太陽の塔ならば、それはなかなか素敵なことでもあり、結構苦しいことなのかもしれない。
 少なくとも「ええじゃないか」と言ってられないくらいには。

太陽の塔 (新潮文庫)

太陽の塔 (新潮文庫)

山野井泰史『垂直の記憶』を読んで。 〜 人間の強さ 〜

フィジカルな文章

 山野井泰史『垂直の記憶』を読みおえた。非常に面白かった。
 毎年読んだ本をランキングしていのだけれど、今年の一番は間違いなく『垂直の記憶』だ。(ちなみにこれまでの一番は北村薫太宰治の辞書』だった。)
 十代の頃に植村直己の冒険記や野田知佑のカヌーエッセイを好んで読んでいた。最近はそういった作品からは離れていたけれど。自分が冒険記のようなフィジカルな文章作品が好きであることを再確認した。今後、他の登山記、冒険記を読みたいと強く感じる。


「生還」

 『垂直の記憶』は七つの山の記録で構成されている。なかでも第七章「生還」が最も印象深い。
 ギャチュン・カン北壁を舞台にしたその章は、下山後の静かな病室の場面から始まり、時間を戻してスリリングで重苦しい登頂を描き、やがて、自然の猛威に圧倒され続ける下山の文章へと進む。
 筆者が高度、寒さ、風雪という厳しい自然に、身体をしたたかに傷めつけられながら、只々やらなければならないことを一つひとつ積み重ねていく描写は、生還すると分かっていながらも、やはり痛ましかった。


人間の身体の強さ

 人間が高い山に登ることは知っている。ただ、その経験のない自分にとっては、どうしても切り離された遠い話に落ち着いてしまう。しかし『垂直の記憶』を読んでいると、高い山に登ることを可能にしている人間の身体の力がダイレクトに伝わってきて、衝撃を受ける。
 たとえば人間が100Mを9秒台で走る姿を、テレビの画面を通して見ている人は多いと思う。だがもし、競技場で自分の世界と連続した視野の中に、直接に9秒台の走りを見たならば、人間の身体が発揮するパワーに圧倒され、テレビで見るのとは違う衝撃を受けるだろう。それと似た衝撃が『垂直の記憶』からは得られる。
 読んでいて、とにかく人間の身体の力強さが伝わってくるのだ。どうやら自分が認識しているよりも、人間は強いようだ。
 もちろん、活字からの想像風景を見ているので、それは虚像に過ぎないかもしれない。しかし山野井泰史の文章からは、確かに、凍った手で必死にクラックを探し、ピトンを叩き込む彼の姿が浮かび上がってくる。
 激しい自然に抗い、負けることなく山を下った彼と、彼の妻山井妙子の姿は非常に感動的だった。


『垂直の記憶』

 実際に見てはいないし、音も聞いてはいない。それでも読むことを通して人間の身体の偉大さをダイレクトに感じた。『垂直の記憶』の鋭く直截的でフィジカルな文章は、自分にとってとても大切なものとなった。読んでよかったと心から思う。
垂直の記憶 (ヤマケイ文庫)

垂直の記憶 (ヤマケイ文庫)